第75話 撤回
セルマは、原稿を三度読み返した。
《非定型即応判断法 撤回声明》
その文字は、思っていたよりも重かった。
研究者として、
理論を発表するより、
撤回する方が難しい。
理由は単純だ。
理論は、もう彼女の手を離れている。
会議室には、静かな緊張があった。
「撤回、とは?」
理事の一人が、静かに問う。
「理論の欠陥が証明されたのか」
セルマは、首を振る。
「理論は、整合しています」
「ですが」
一瞬、言葉を探す。
「適用されることで、
壊れる瞬間があります」
「意味が分からない」
当然だった。
理論は、守るためにある。
壊すためにあるはずがない。
セルマは、はっきりと言った。
「止まる前に、
考えさせてしまう」
沈黙。
「それは、慎重さだろう」
「悪いことではない」
「ええ」
セルマは頷く。
「ですが、
現場は待ちません」
別の理事が口を挟む。
「君の理論がなければ、
事故はもっと増えていたかもしれない」
その可能性も、否定できない。
だが、
それでも。
「火は、
理論の外で起きています」
その言葉に、
数人が眉をひそめる。
「火?」
セルマは、ゆっくり説明する。
「壊れる前に、
誰かが立つ」
「それは、
訓練では作れません」
「ならば偶然だ」
「いいえ」
セルマは、静かに言う。
「偶然なら、
偏りは生まれません」
地図を示す。
事故が起きていない区域。
理論が届く前から、
そこには痕跡があった。
「理論は、
火を増やせない」
「むしろ、
弱める可能性があります」
長い沈黙の後、
理事長が口を開く。
「正式な撤回は、
組織の信用に関わる」
「承知しています」
「だが、修正は可能だ」
セルマは、首を振った。
「修正すれば、
さらに条件が増えます」
「火は、
条件の外にあります」
結論は、出なかった。
撤回は、保留。
理論は、存続。
会議が終わる。
廊下で、助手が言う。
「……本当に、
撤回するつもりですか」
セルマは、窓の外を見る。
遠くの斜面が、夕日に染まっている。
「理論は、残るでしょう」
「では?」
「私は、
名前を使わない」
それが、彼女にできる精一杯だった。
数日後、
理論は、別の部署で再定義される。
《改訂版 非定型即応判断法》
名前は、消えない。
一方、
遠く離れた場所で、
リエンは、石を積み直している。
誰も、見ていない。
承認も、
理論も、
関係ない。
夕立が来る。
崩れない。
セルマは、その報告を受け取らない。
受け取る記録が、存在しないからだ。
彼女は、静かに理解する。
撤回しても、
火は戻らない。
だが、
名前を手放した瞬間、
少しだけ、
視界が広がった。
理論の外で、
今日も、
壊れなかった場所がある。
それを、
証明はできない。
だが、
否定もできない。
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