第74話 理論の外側
事故は、小さかった。
小さすぎて、
ニュースにもならない。
斜面の一部が崩れ、
資材がいくつか流された。
怪我人はなし。
対応は迅速。
報告書は、整っている。
《非定型即応判断法 適用確認済》
《兆候チェック完了》
《承認手続き適正》
完璧だった。
セルマは、その報告書を読み終え、
ゆっくりと閉じた。
「……間に合っていない」
助手が首を傾げる。
「理論は守られています」
「ええ」
セルマは頷く。
「守られたわ」
守られた。
だから、遅れた。
現場では、
研修を受けた若い作業員が、
悔しそうに言っていた。
「違和感は、あったんです」
「でも、リストに該当しなかった」
「報告して、承認を待ちました」
「待った?」
「はい」
「判断は、単独でしないようにと」
セルマは、その言葉を何度も反芻する。
——単独でしない。
理論は、暴走を防ぐために、
複数判断を推奨していた。
だが、
あの女は、
単独で立っていた。
セルマは、現場の斜面に立つ。
崩れた部分は、
ほんのわずかだ。
だが、
崩れなくてもよかった。
彼女は、しゃがみ込む。
土に触れる。
「……軽い」
助手が驚く。
「軽い?」
「昨日より、軽いはずだった」
セルマは、息を止める。
——止まる前に、考えさせた。
理論が、
止まる瞬間を、
会議に変えてしまった。
遠くで、
作業員たちが話している。
「理論通りやった」
「責任はない」
その通りだ。
責任は、ない。
だが、
壊れた。
セルマは、立ち上がる。
「理論の修正を」
助手が言う。
「どこを?」
セルマは、答えられない。
修正すれば、
さらに条件が増える。
さらに承認が増える。
止まる時間が、
もっと遅くなる。
その夜、
セルマは机に向かう。
《非定型即応判断法 改訂案》
書き出して、止まる。
改訂できるのは、
理論の中身だけだ。
だが、
壊れたのは、
理論の外側だった。
——立つ瞬間。
それは、
理論に入らない。
セルマは、ペンを置く。
遠くの空が、光る。
どこかで、
誰かが立っている。
承認も、
理論も、
名前もないまま。
そして、
そこは、
壊れていない。
セルマは、初めて理解する。
理論は、
火を守れない。
だが、
捨てる勇気も、
まだ持てない。
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