第73話 名前が歩き出す
名前は、思ったより早く広がった。
《非定型即応判断法》
資料は整えられ、研修は増設され、講義は録画される。
セルマの論文は、引用され始めた。
「現場の柔軟性を制度化する画期的理論」
そんな言葉までついた。
セルマは、壇上に立っていた。
「重要なのは、兆候を捉えることです」
「壊れる前に、違和感を拾う」
聴衆は頷く。
メモを取る。
質疑が飛ぶ。
「違和感の定義は?」
「主観をどう排除する?」
「誤判断の責任は?」
セルマは、答える。
「観察項目を標準化します」
「訓練によって精度を上げられます」
言葉は、滑らかだった。
だが、胸の奥に小さな棘が残る。
研修を受けた現場で、作業員が立ち止まる。
「違和感チェック、だな」
彼は、資料を思い出す。
兆候リストをなぞる。
湿度。
傾斜角。
音の変化。
「……該当なし」
報告は不要と判断する。
夜、雨が強まる。
斜面が崩れる。
小規模。
怪我なし。
迅速対応。
報告書には、新しい文言が並ぶ。
《非定型即応判断法に基づき確認済み》
《チェック項目に該当なし》
正しい。
手順通り。
責任は明確。
だが、壊れた。
別の現場では、逆のことが起きる。
違和感チェックが過剰に働く。
小さな兆候でも報告が上がる。
承認待ちが増える。
現場は、遅くなる。
「最近、動きづらいな」
作業員がこぼす。
「考えることが増えた」
それは、善意の結果だった。
セルマは、増え続ける報告を読みながら、
異様な傾向に気づく。
事故は減っていない。
だが、
「適用中」の件数だけが増えている。
名前が、
事故の横に並び始めている。
《非定型即応判断法適用下における事象》
彼女は、紙を握りしめる。
——火が、名前に変わっている。
名前は便利だ。
共有できる。
責任を整理できる。
だが、
便利なものは、歩き出す。
現場から離れ、
理論の上で一人歩きする。
遠く離れた場所で、
リエンは橋の縁を見ていた。
静かだ。
彼女は、止まる。
石を押す。
水を逃がす。
誰も見ていない。
名前も、理論も、関係ない。
翌朝、橋は壊れない。
一方、研修を受けた別の現場で、
同じ橋が、別の形で崩れる。
報告書は、整っている。
《理論適用中の想定外要因》
セルマは、深く息を吐く。
名前は、守るために与えた。
だが今、
名前が、
守るべきものを遅らせている。
彼女は、初めて思う。
——名前を、止めなければ。
だが、
一度歩き出した名前は、
もう、彼女の手を離れている。
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