第70話 痕跡だけが残る
セルマは、足を止めた。
斜面は、すでに補修されている。
杭の打ち方は粗い。
石の並びも、美しくはない。
だが、水の流れはきちんと逃げている。
「申請は?」
助手が端末を確認する。
「ありません」
「この区域、今期は補修予定もなし」
セルマは、土に触れた。
乾いている。
だが、数日前は違ったはずだ。
「……直後だわ」
「直後?」
「雨の前か、直後」
「判断が、速い」
助手は首を傾げる。
「速い補修なら、今までも」
「違う」
セルマは、石の配置を見つめる。
「設計に基づいていない」
「現場で、即断している」
風が吹く。
斜面の上から、小石が一つ転がる。
セルマは、反射的に見上げる。
何もない。
だが、
彼女は確信する。
「誰かが、見ていた」
「見ていた?」
「壊れる前の兆候を」
助手は、黙る。
セルマは、別の場所へ向かう。
古い橋。
縁が、わずかに削れている。
そこにも、補修跡。
雑だ。
だが、的確だ。
「これも、記録なし」
助手が言う。
セルマは、橋の中央で立ち止まる。
想像する。
——誰かが、通りがかる。
——違和感を覚える。
——立ち止まる。
——直す。
その一連の流れが、
どこにも残っていない。
「残らない行為」
セルマは、ノートを開く。
《非記録型予防的介入》
書いた瞬間、
違和感が走る。
「……違う」
言葉が、重い。
「予防」ではない。
「介入」でもない。
もっと、曖昧で、
もっと、個人的な何か。
遠くで、子どもが走る。
「ねえ、ここ前より静かだよ」
誰かが答える。
「そうか?」
その会話を聞いた瞬間、
セルマの心拍が、わずかに上がる。
「静か」
壊れる前の場所は、騒がしい。
きしみ、濁り、微細な崩れ。
それを、
誰かが消している。
「追えるかもしれない」
助手が顔を上げる。
「どうやって?」
セルマは、ゆっくりと言う。
「壊れていない場所を辿る」
事故が起きた場所ではない。
壊れなかった場所。
そこに、痕跡がある。
その夜、セルマは地図を広げる。
赤い印は、事故発生地点。
青い印は、補修申請。
そして、
何もない空白地帯。
「ここ」
指が止まる。
連なっている。
偶然ではない。
だが、
理論としては弱い。
証拠がない。
記録がない。
名前もない。
セルマは、机に手を置く。
「それでも、いる」
誰かが、いる。
理解しなければならない。
残さなければならない。
共有しなければならない。
そうしなければ、
再現できない。
セルマは、まだ知らない。
再現しようとした瞬間、
それが壊れることを。
遠く離れた場所で、
一人の人影が、
また立ち止まる。
誰も見ていない。
だが、
痕跡だけが、
静かに残る。
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