第7話 数字の向こう側
異常は、会議室ではなく、帳票の端から始まった。
リオは、その数字を三度見直した。
一度目は見間違いだと思い、二度目は集計ミスを疑い、三度目でようやく、息を止めた。
「……上がってる」
死亡率。
事故率。
どれも、わずかだ。誤差と言ってしまえば終わる程度。
だが、同じ四半期、同じ地域、同じ輸送経路に集中している。
彼は、机の引き出しから古い帳面を引っ張り出した。
アルトが使っていた、薄い革表紙の写し。
正式な資料ではない。会議に出したこともない。
それでも、リオは忘れられなかった。
《寒冷地—湿度—積載密度》
《個別では問題なし。重なると、死ぬ》
文字は小さく、断定的だった。
「……偶然、じゃない」
リオは立ち上がり、統計室へ向かった。
追加のデータを要求する。拒まれはしない。数字を集めること自体は、今も奨励されているからだ。
問題は、その数字をどう読むかだった。
午後。
集まった帳票を重ねる。
医療中継所の死亡率。
軍需訓練中の事故率。
補給遅延の件数。
どれも、単独なら説明がつく。
だが、重ねると、同じ輸送線が浮かび上がる。
リオの背中に、冷たいものが走った。
「……あの人が、言ってた」
声に出した瞬間、誰もいない部屋であることに気づく。
それでも、言葉は止まらなかった。
「“成功しているときほど、数字は嘘をつく”」
夕刻、臨時の小会議が開かれた。
正式な議題ではない。
「念のため」の確認だ。
若手官僚が数字を示す。
「この上昇、偶然の範囲では?」
別の官僚が言う。
「改革直後は揺り戻しがある。想定内だ」
誰も、間違っていない。
理屈は通っている。
リオは、意を決して口を開いた。
「……比較対象を、改革前に戻してください」
視線が集まる。
「三年前。同じ季節、同じ地域、同じ患者層です」
数字が並ぶ。
一瞬、空気が止まった。
差は、大きくない。
だが、方向が違う。
「……下がっている」
誰かが呟いた。
「三年前は、下がっていた」
沈黙が落ちる。
そこへ、年配の官僚が言った。
「アルトがいた頃だな」
その名前が出た瞬間、空気が変わった。
懐かしさではない。
居心地の悪さだ。
「彼は……細かすぎた」
「最悪を想定しすぎていた」
そう言う声も出る。
だが、数字は消えない。
宰相ヴァルドは、黙って資料を見ていた。
眉間に、浅い皺。
「因果関係は?」
「……断定できません」
「なら、結論は出せない」
正しい判断だった。
制度は、断定なしに変えてはいけない。
会議は、保留で終わった。
夜。
北方。
アルトは、いつもより早く帳面を閉じた。
胸の奥に、言葉にできない違和感が残っている。
——来たな。
確信は、なかった。
だが、長く設計をしてきた者だけが持つ感覚が、静かに鳴っていた。
それは、崩壊の音ではない。
理解の遅れが、限界に近づいた音だ。
彼は、窓を開け、冷たい風を吸い込んだ。
王都では今頃、
誰かが“比較”を始めている。
それは、
この国が、もう一度戻ろうとする合図だ。
だが——
戻る場所は、もう存在しない。
アルトは、帳面の最後に一行だけ書いた。
《統計が語り始めたら、
人はもう、止められない》
ペンを置く。
数字は、嘘をつかない。
嘘をつくのは、
数字が出るまで待ってしまった人間のほうだ。
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