第59話 消えた人の話
その名を、
知っている者は、
ほとんどいない。
記録を探しても、
出てこない。
制度の文書にも、
商業連合の報告にも、
その名はない。
だが、
似た話は、
あちこちに残っている。
「前に、
通りすがりの人がいてな」
「名前は、
聞かなかった」
「気づいたら、
直ってた」
「誰がやったか、
分からない」
それだけだ。
制度側の担当官が、
書類をめくりながら言う。
「……
奇妙ですね」
「特定の地域だけ、
事故が少ない」
上司が、
眼鏡の奥で目を細める。
「指標にできるか」
「無理です」
「再現性がありません」
それ以上、
話は進まない。
商業連合でも、
似た会話が交わされていた。
「モデル化できない改善」
「属人性が高すぎる」
代表の男は、
興味を失ったように言う。
「なら、
放っておけ」
数字にならないものは、
資源にならない。
だから、
追われない。
若者は、
別の土地を歩いていた。
同行者は、
もういない。
それぞれ、
別の場所で立っている。
一人で直すことも、
増えた。
判断は、
速くなった。
不安は、
消えていない。
だが、
それでいい。
ある村で、
年配の女が言った。
「……
昔、
変な人が来てね」
「何も言わずに、
橋を直していった」
若者は、
足を止める。
「その人、
どんな人でした」
女は、
少し考えてから答えた。
「怖そうな顔だった」
「でも、
立ち方が、
優しかった」
それだけだ。
若者は、
胸の奥で
何かが静かに落ちるのを感じた。
——先生。
その言葉は、
口には出さない。
出せば、
名になってしまう。
夜、
一人で焚き火を起こす。
小さな火。
誰かと囲むことは、
もう少ない。
火を見つめながら、
若者は思う。
——あの人は、
どこへ行った。
答えは、
分かっている。
——どこにもいない。
——だが、
どこにでもいる。
火を起こす癖。
立ち止まる癖。
嫌な音に耳を澄ます癖。
それらは、
名前を持たずに、
人に残る。
翌朝、
若者は立ち上がる。
新しい場所へ向かう。
誰にも、
告げない。
だが、
その背中を見た誰かが、
足を止める。
「……
今、
直した方が
いいんじゃないか」
その一言で、
十分だった。
世界は、
正しくならない。
制度も、
変わらない。
商業連合も、
消えない。
それでも、
壊れない場所が、
少しずつ増えている。
アルトという名は、
もう語られない。
だが、
立ち方だけが、
静かに残る。
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