第54話 名のない判断
朝、
雨は上がっていた。
斜面は、
まだ立っている。
土は重く、
水を含んでいるが、
崩れる気配はない。
集落の男が、
無言で斜面を見つめている。
誰も、
歓声を上げない。
理由は簡単だ。
ここでは、
壊れなかったことが
日常だからだ。
若者は、
足元の水の流れを確認する。
「……
逃げ道、
まだ生きてますね」
同行しているもう一人が、
頷く。
「昨日の判断、
悪くなかった」
それだけだ。
評価は、
それ以上でも、
それ以下でもない。
集落の者の一人が、
ぽつりと聞く。
「……
記録は、
取らないのか」
若者は、
首を振った。
「取らない」
「取れない」
「なんでだ」
「名前がつくからです」
男は、
少し考えてから言う。
「名前がつくと、
何が変わる」
若者は、
しばらく黙ってから答えた。
「次から、
考えなくなります」
集落の者は、
それ以上、聞かなかった。
分かるからだ。
彼らは、
書類を見てきた。
判を押してきた。
その結果、
何も直らなかった。
昼前、
別の場所で小さな問題が起きた。
水路の石が、
一つずれている。
大したことはない。
だが、
放っておくと、
流れが変わる。
若者は、
即座に腰を下ろした。
「……
今、直す」
誰の許可も、
取らない。
根拠も、
説明しない。
同行の者が、
周囲を見渡す。
「誰も、
見てないな」
若者は、
笑わなかった。
「見られると、
判断じゃなくなる」
石を戻し、
土を詰める。
五分で終わる作業だ。
だが、
それで事故は起きない。
集落の子どもが、
遠くから見ている。
「おじさん、
なにしてるの」
若者は、
少し考えてから答えた。
「……
壊れないようにしてる」
「ふーん」
子どもは、
興味を失って走り去る。
それでいい。
夕方、
三人は、
集落を離れる準備をする。
「もう、
行くのか」
年配の男が言う。
「はい」
「ここは、
今日、
壊れなかった」
「それで、
十分です」
男は、
何か言いかけて、
やめた。
代わりに、
短く頭を下げる。
名前を聞かれない。
記念も残らない。
だが、
道は残る。
アルトは、
歩きながら帳面を開く。
《判断:記録せず》
《結果:事故なし》
そして、
一行だけ書く。
《名のない判断は、
世界を変えない
——壊れさせない》
若者は、
空を見上げる。
雲の切れ間から、
光が落ちている。
誰も、
気にしない。
それでいい。
名のない判断は、
賞を取らない。
称賛も、
物語にもならない。
だが、
今日も、
世界は壊れなかった。
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