第5話 間に合わなかった一行
事故は、北方では起きなかった。
それが、最悪だった。
最初に報告が上がったのは、南部領だった。
海に近い、温暖で、改革の影響が最も少ないと見られていた地域。
「港湾倉庫で、医療用保存薬が一部変質」
被害は限定的だった。
回収は可能。代替もある。
死者はいない。
だから、最初の分類は「軽微」。
だがアルトは、報告書の冒頭で手を止めた。
保存薬の製造日は、三ヶ月前。
輸送経路は北方を経由している。
そして、倉庫の保管方式は——
新基準。
「……繋がったな」
彼はそう呟き、すぐに机に向かった。
帳面を開き、これまでの記録を並べる。
寒冷地での微劣化。
事故未満の不具合。
引き継ぎ短縮。
一日の遅延。
そして、南部の変質。
どれも、単独なら説明がつく。
だが重ねると、一つの線になる。
――“余白のない流通”は、環境差を吸収できない。
アルトは王都へ、これまでで最も踏み込んだ報告を送った。
事故ではない。
制度違反でもない。
だが、このままでは次は回収で済まない。
文章は、短く、断定的だった。
警告に近い。
返答は、来なかった。
代わりに届いたのは、
改革第三段階の概要だった。
さらなる簡素化。
さらなる一本化。
成功事例として、北方と南部の数字が並ぶ。
アルトは、紙を握り潰しそうになり、手を止めた。
怒ってはいけない。
怒りは、論理を鈍らせる。
だが、焦りは抑えきれなかった。
彼は南部へ向かう許可を求めた。
現地を直接見るために。
返答は、簡潔だった。
「必要なし」
その一行で、すべてが決まった。
王都では同じ頃、会議が開かれていた。
「南部の件は、対応済みです」
官僚が報告する。
「回収は完了。
原因は、保管時の一時的な温湿度変化と判断されます」
宰相ヴァルドは頷いた。
「想定内だな。
制度の問題ではない」
英雄セインも言った。
「現場が対処できているなら、問題ないでしょう」
誰も嘘を言っていない。
誰も責任を逃れていない。
そのとき、若い官僚が、恐る恐る口を開いた。
「……念のためですが。
以前、制度設計官だったアルトの報告と、
似た指摘が——」
室内の空気が、わずかに変わる。
宰相は、少しだけ眉を動かした。
「アルトか。
彼は現場に回したはずだ」
「はい。北方の監督官として」
「なら、現場で処理すべき案件だ」
その一言で、話は終わった。
アルトの名前は、
“中央の判断材料”ではなくなった。
夜、北方。
アルトは帳面を閉じ、深く息を吐いた。
南部の被害報告が、机の上に置かれている。
《回収完了。被害軽微》
軽微。
その言葉が、胸に突き刺さる。
軽微で済んだのは、
まだ余白が完全には消えていなかったからだ。
だが次は違う。
彼は、最後のページに一行を書いた。
《次に起きるのは、
“回収では追いつかない事態”》
書き終えた瞬間、外で風が鳴った。
北方の夜風だ。冷たく、乾いている。
アルトは窓際に立ち、遠くの街道を見た。
荷車の灯りが、点々と続いている。
国は、まだ動いている。
だから誰も、止めない。
彼は、ふと思った。
——もし、あの会議で。
——もし、あの一行が。
だが、思考を切り捨てる。
過去に戻る余白は、
もう、この国には残っていない。
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