第40話 境界が壊れる日
音は、小さかった。
木が、
ほんの少し、
きしむ音。
それだけだ。
誰も、
立ち止まらなかった。
その日は、
特別な日ではない。
天気も穏やかで、
予定も少ない。
「今日も、
特にありません」
集会所で、
そう報告される。
誰も、
違和感を覚えない。
昼過ぎ、
水路の先で、
石が一つ外れた。
流れが、
わずかに変わる。
以前なら、
誰かが気づいた。
今は、
誰も見ていない。
夕方、
倉庫の近くで、
床が沈んだ。
一度、
戻ったように見えた。
基準上、
問題ない。
契約上、
対応は後日。
だから、
誰も止めない。
夜、
雨が降った。
強くはない。
だが、
続いた。
水は、
逃げ場を失い、
集落の低い場所に溜まる。
小屋の壁が、
軋む。
中にいたのは、
老人一人。
逃げ遅れた。
助け出されたとき、
命はあった。
だが、
体は動かなかった。
騒ぎは、
すぐに収まった。
商業連合が動く。
「補償対象です」
「医療手配も、
規定どおり」
制度側も、
書類を確認する。
「基準内の事象です」
誰も、
嘘をついていない。
若者は、
雨の中、立ち尽くす。
——ここ、
直せた。
——全部、
小さかった。
小さな音。
小さな歪み。
小さな延期。
全部、
見逃せた。
アルトは、
濡れた帳面を開く。
《連鎖的損壊》
《負傷者一名(重)》
ペンが、
止まる。
《原因:——》
書けない。
いや、
書ける。
《原因:
誰も立たなかった》
だが、
それは、
誰の名前でもない。
集会所に、
人が集まる。
沈黙が、
前より重い。
「……
どうすればいい」
誰かが、
ようやく言った。
商業連合の男は、
慎重に答える。
「契約の見直しを」
制度側は言う。
「基準の改定を」
若者は、
声を絞り出す。
「……
立つ人が、
いない」
誰も、
否定しなかった。
アルトは、
前に出ない。
代わりに、
一歩、後ろへ下がる。
——ここから先は、
私の世界じゃない。
境界は、
壊れた。
音もなく、
誰にも気づかれないまま。
だが、
壊れた後にだけ、
冷たさが残る。
夜、
雨は止んだ。
だが、
集落は、
もう同じではない。
これは、
失敗の物語ではない。
引き受けられなかった世界の、
当然の帰結だ。
アルトは、
帳面を閉じた。
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