第32話 若者の独断
アルトはいなかった。
焚き火の前にも、
集会所の隅にも、
その姿はない。
それだけで、
場の空気が少し変わる。
「……じゃあ、始めよう」
口を開いたのは、
余白側に残った若者だった。
年齢は若いが、
この数ヶ月で、判断の場数は踏んでいる。
制度側の担当官が、
資料を広げる。
「基準は、
この範囲なら問題ない」
「だが、
そちらの判断速度も必要だろう」
若者は、頷いた。
「全部は、
飲めない」
「だが、
一部は使う」
それは、
アルトが避けてきた言い方だった。
だが、
現場には魅力的に響いた。
「水路の点検だけ、
基準を入れる」
「作業判断は、
こちらで持つ」
制度側は、少し考え、
頷いた。
「合理的です」
その日、
合意文書が交わされた。
大げさなものではない。
仮の取り決めだ。
だが、
**初めての“折衷”**だった。
数日は、
何も起きなかった。
むしろ、
調子がいい。
「楽になったな」
「判断が減った」
「作業も早い」
若者自身も、
内心、安堵していた。
——いける。
その考えが、
少しだけ早かった。
数日後、
水路の一部が詰まった。
基準上は、
即時対応不要。
だが、
経験的には、
嫌な詰まり方だった。
若者は、
文書を見た。
——基準内。
——判断不要。
「……」
一瞬、
アルトの顔が浮かぶ。
だが、
ここにはいない。
「今回は、
様子を見る」
その判断は、
間違いではなかった。
夜、
雨は降らなかった。
水位も、上がらない。
翌朝、
詰まりは自然に流れた。
「ほらな」
誰かが笑う。
成功だ。
だが、
若者の胸に、
小さな違和感が残る。
——今の判断、
誰が引き受けた?
自分か。
文書か。
基準か。
答えは、
はっきりしなかった。
夜、
若者は帳面を開いた。
書くべきか、
迷う。
《水路詰まり》
《判断:様子見》
《結果:問題なし》
そこまでは書ける。
だが、
最後の一行が、書けない。
《責任:——》
ペンが止まる。
責任は、
分散されていた。
それが、
この仕組みの利点でもあり、
欠点でもある。
若者は、帳面を閉じた。
成功は、
人を黙らせる。
失敗よりも、
静かに、
判断を奪う。
遠くで、
制度の町の灯りが揺れている。
アルトはいない。
だが、
彼の不在が、
初めて、
形として残った夜だった。
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