第3話 まだ名前のない歪み
最初に違和感として届いたのは、苦情ですらなかった。
「……今年の穀物、悪くはないんですがね」
北方領の市場で、年配の商人がそう言った。
怒っているわけでも、困っているわけでもない。
ただ、首を傾げている。
「去年より、少しだけ……日持ちがしない気がする」
その言葉は、記録には残らない。
返品はない。値下げもない。
数字は、完璧だった。
アルトは商人の手元にある袋を取り、口を開ける。
匂いは正常。色も悪くない。
だが、指先に伝わる感触が、わずかに違う。
「いつ頃からですか」
「寒波が明けたあたりからですかね。
気のせいかもしれませんが」
気のせい。
その一言で、国は何度も救われ、何度も滅びてきた。
アルトは倉庫へ向かった。
問題の区画を開けると、穀物袋は寸分の狂いもなく積まれている。
整然として、美しい。
――美しすぎる。
袋と袋の間に、空気が通る隙間がない。
冬の湿気が、逃げ場を失った配置だ。
「基準どおりですね」
担当者は胸を張った。
その目には、誇りがある。
「保管効率は最大です。
中央からも評価されています」
「去年の冬、この倉庫は何日凍った?」
「十日ほどです」
「その間、温度差は?」
「昼夜で十度近く」
アルトは黙って頷いた。
それだけあれば、十分だ。
劣化は起きる。ただし——
「廃棄は?」
「していません。基準値を下回っていませんから」
基準。
その言葉が、今は一番重い。
「……そうか」
それ以上、言えることはなかった。
問題ではない。
問題として扱われない限り、誰も修正しない。
数日後、今度は軍需倉庫から報告が上がった。
訓練中、矢羽が数本、途中で外れたという。
事故は起きていない。
死者も、怪我人もいない。
だから分類は「参考」。
アルトは報告書を読み、寒波の記録と照合する。
物流遅延。
保管日数の延長。
効率化による積載密度の増加。
一つひとつは、正しい。
だが、重なったときのことを、誰も考えていない。
「接着剤の変更は?」
「していません。以前と同じものです」
「保管場所は?」
「新基準に従っています」
現場は、完璧に制度を守っている。
だからこそ、歪みが表に出ない。
アルトは王都へ補足報告を送った。
数字を抑え、感情を排し、淡々と。
寒冷地における品質劣化、微増。
事故未満の不具合、報告件数増加。
環境条件が重なった場合、再発の可能性あり。
返答は、早かった。
《現時点で制度的問題なし。
改革効果を優先し、推移を観測せよ》
推移を観測せよ。
それは、事実上の黙殺だった。
アルトは、返答を読み返し、紙を畳んだ。
怒りはない。
理解できる。中央は忙しい。
成功している改革を止める理由はない。
春が来た。
雪は解け、湿気は抜け、問題は消えた。
市場の声も止み、軍需の報告も平常に戻る。
現場は胸を撫で下ろし、王都は成功を確信する。
「やっぱり、一時的なものだったな」
その言葉が、あちこちで交わされた。
アルトだけが、帳面に線を引いた。
寒波終了と同時に消失。
環境依存で顕在化する構造的歪み。
その下に、小さく書く。
次回、条件が重なれば再発。
規模は、今回より大きくなる。
ペンを置いた瞬間、指先が震えていることに気づいた。
恐怖ではない。
焦りだ。
彼は知っている。
これは、まだ序章だ。
今起きたのは、
「壊れなかった」という結果でしかない。
壊れなかったから、誰も学ばない。
学ばないから、次は壊れる。
窓の外では、北方の街が春を迎えていた。
人々は穏やかで、荷車は軽やかに走り、
国は、正しく前へ進んでいるように見える。
アルトは、胸の奥で何かが削れていくのを感じた。
——自分が、
**“失敗を失敗として認識させる役割”**を、
もう果たせなくなっていることを。
問題は、まだ起きていない。
だから、彼は呼ばれない。
だが、
問題が起きたとき、
誰よりも早く気づくのは、きっと自分だ。
そのとき、
この国はまだ、
修正できる余白を残しているだろうか。
アルトは帳面を閉じ、深く息を吐いた。
熱のない成功ほど、
後から人を焼くものはない。
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