第1話 正しい歯車は、音を立てない
それは、間違った追放ではなかった。
むしろ――正しすぎる追放だった。
彼は無能ではない。
怠け者でも、裏切り者でもない。
ただ、誰よりも早く「最悪」を想定し、
誰よりも多く「起きなかった失敗」を処理していた。
だが、その仕事は記録に残らない。
事故が起きなければ評価されず、
問題が起きなければ存在しないことにされる。
だから国は、彼を追放した。
改革の妨げになる、慎重すぎる男として。
――そして改革は成功した。
数字は改善し、国は速く、強くなった。
誰も困らず、誰も後悔しなかった。
ただ一つを除いて。
「間に合わなかった」という死が、
少しずつ、静かに増えていくことを。
これは復讐の物語ではない。
ざまぁを叫ぶ物語でもない。
正しい判断が、
なぜ人を殺したのか。
その答えが、
理解されるまでの時間を描く物語だ。
そして、理解されたとき――
彼はもう、そこにいない。
これは、
追放された制度設計官と、
“遅れて後悔する世界”の物語である。
夜明け前の王城は、眠っているようで眠っていない。
廊下の石畳は冷たく、窓の外はまだ墨を流したように暗い。だが、どこかの部屋では羽ペンが走り、どこかの階段では兵が交代し、どこかの厨房では湯が沸く。国が動く音は、いつも静かだ。
アルトは記録室の扉を押し開け、湿った紙の匂いに迎えられた。
机の上には、昨日の報告書が束になって積まれている。封蝋の色だけで部署が分かる。赤は軍、緑は穀倉、青は物流、黒は内政——そして、白は「何も起きなかった」報告だ。
アルトは白い封蝋を先に手に取った。
内容は短い。道の補修は予定どおり。井戸は平常。税の徴収は例年並み。疫病の兆候なし。
「……平和だな」
そう呟いた自分の声だけが、部屋に残った。
白い報告書は、誰も褒めない。読む人も少ない。だがアルトは知っている。白が積み上がるほど、国は救われている。
次に青い封蝋。物流。
ページをめくった瞬間、彼の眉がわずかに動く。
――北街道、荷車の転倒事故二件。
――原因:雨による泥濘。
――損失:穀物二十俵。
――対応:街道の砂利補充。
「雨、か」
アルトは窓の外を見た。雨は昨夜上がっている。泥濘は今朝の問題ではない。昨日の午後の話だ。にもかかわらず二件——偶然にしては数が揃いすぎる。
報告書の端に添付されている簡易地図を指先でなぞる。転倒地点はどちらも同じ坂の手前。
坂に入る前に転ぶ。つまり速度が出ていない。なのに転ぶなら、車輪ではなく荷の積み方か、車軸か、あるいは——
アルトは引き出しから別の帳面を出した。「車輪整備記録」。
この坂道区間に出入りする荷車の整備担当が、先月から変わっている。
「……整備の基準が違う」
彼は青い報告書の余白に短く書きつけた。
《雨ではない。車輪整備・積載規格を点検。坂前の転倒は軸の締め方の問題が多い。担当者交代時期と一致》
派手な言葉はいらない。必要なのは、次の人が動ける材料だ。
アルトはその報告書を「今すぐ」の箱へ置いた。
その隣には「半年後に問題化」の箱があり、さらに「誤解されやすいが問題ではない」の箱もある。彼の机には、国の呼吸が三つの箱に分解されて並ぶ。
扉が控えめに叩かれた。
「アルトさん、もう来てたんですか……」
若い官僚見習いのリオが、顔を覗かせた。目の下に薄く隈がある。昨日、彼が担当した資料の提出が遅れたと聞いている。
「入れ。顔が青い」
「すみません。昨夜の会議用の集計、途中で数字が合わなくなって……作り直して……」
リオは机に置かれた束を見て、息を呑んだ。アルトがすでに仕分けを終え、赤と青の報告書に目を通しているのを見たからだろう。
「俺が見るのは早い。君は昼までに会議資料を整えろ」
「でも、昨日の集計……僕のミスで……」
リオの声が震える。若いほど、失敗が世界の終わりに見える。
アルトは羽ペンを置き、リオの束から一枚抜いた。
そこには税収の月次推移が並び、ひとつだけ不自然な谷がある。
「ここ、君は『急落』と書いたな」
「はい。数字が落ちてて……」
「落ちたのは税収じゃない。徴収の計上時期だ」
アルトは谷の横にある小さな注釈を指した。
《南部の徴収期限、祭礼のため一週間延期》
「……あ」
「君の判断は間違ってない。ただ、三ヶ月早すぎた」
リオが目を丸くする。
アルトは続けて言った。
「今の会議が見ているのは『今月の数字』だ。だが君が拾ったのは『来季の徴収習慣の変化』の芽だ。良い観察だ。ただ、今日の場では敵を増やすだけだ」
「じゃあ……どうしたら」
「会議資料には『祭礼による計上ずれ』とだけ書け。別紙で俺に渡せ。三ヶ月後に、君の観察が効く」
リオの肩から力が抜けた。
救われた顔をする。だが同時に、なにか申し訳なさそうでもある。
「アルトさん、なんで……こんな……」
「国は、見えないところで崩れる。君が見えたなら、それでいい」
リオが頭を下げ、扉へ向かいかけたとき、廊下が急に賑やかになった。靴音が揃い、笑い声が混じる。
扉が開き、光が差し込んだ。
「おはようございます、諸君!」
若き英雄、セインが入ってきた。
肩には新しい外套。胸元には討伐徽章。彼の周りには改革派の官僚たちがいて、誰もが明るい顔をしている。戦場で勝つ者は、歩くだけで空気が変わる。
その後ろに、宰相ヴァルドがいた。
四十代。鋭い目。髪は整えられ、言葉はいつも明確だ。人々が「この人なら国を変えられる」と期待するタイプの強さがある。
「アルト、早いな」
宰相が言う。敵意はない。むしろ自然な敬意すら含まれている。
「いつもどおりです」
アルトは立ち上がらないまま、軽く会釈した。
セインが机上の箱を覗き込み、笑った。
「また報告書ですか。アルトさんはほんとに書類が好きだなぁ。俺は、剣を振ってた方が性に合う」
「剣で守れるのは、今日だ」
アルトは淡々と返した。
「書類で守れるのは、明日と、来年だ」
セインは一瞬きょとんとし、それから朗らかに笑って流した。
こういう言葉は、場の温度を下げる。彼はそれを無意識に避けるのが上手い。
宰相ヴァルドが資料を取り出した。
「今朝の会議で、改革案を最終決定する。簡素化だ。現場の手続きを減らし、軍と物流を一本化する。重複が多すぎる」
改革派の官僚たちが頷く。
確かに、重複は多い。紙は多い。決裁は遅い。国は、速くなければ負ける。
「アルト、反対か?」
宰相がまっすぐに問う。
アルトは、反対ではなかった。
ただし、条件がある。
「反対ではありません。だが、緩衝期間が必要です」
「緩衝?」
「三年分。最低でも二年半。一本化の過程で生じる欠損を吸収する仕組みが要る。今の形は無駄に見えるが、“無駄”が緩衝になっている」
改革派のひとりが眉をひそめた。
「無駄は無駄でしょう。緩衝なんて言い訳です」
アルトは机の端から青い報告書を一枚取り、宰相の前に滑らせた。
「物流事故二件。原因は雨と書いてある。だが本当は整備基準のズレだ。担当者が変わっただけでこうなる。一本化すれば、担当者の変更は“制度の変更”として頻発する。整備基準のズレが、国全体で起きる」
宰相が報告書に目を落とす。
黙って読む。情報の扱い方に、彼の力量が出る。
「……代替案は?」
「一本化はする。ただ、移行期に“二重の規格”を許容する枠を作る。現場に裁量を残し、誤差を吸収する。俺が監督する前提なら成功します」
宰相は、数秒だけ黙った。
その沈黙は、冷たい。
「君がいないと成り立たない制度は、制度として失格だ」
宰相の声は静かだったが、刃物みたいに切れた。
正論だった。
そして、彼は本当に国のためを思っている。
アルトは反論を飲み込んだ。
「……なら、監督役を別に置いてください。だが、少なくとも枠は必要です」
「枠が増えれば複雑になる。複雑は腐敗を生む」
宰相は言い切る。
「国はもっと速く、透明になれる。君の“最悪の未来”は、国民の希望を削る」
改革派がざわめく。セインも、気まずそうに目を逸らした。
アルトがいると、勝利の空気に影が差す。彼らはそれを「不快」とは言わない。ただ「時代が違う」と思う。
「会議に来てくれ」
宰相が踵を返す。
「君の意見は聞いた。だが決定は決定だ」
廊下の賑やかさが遠ざかり、記録室に静けさが戻る。
リオが、唇を噛んだままアルトを見る。
「アルトさん……」
「仕事をしろ」
アルトは机に向き直った。
白い封蝋の報告書を一枚、手に取る。何も起きていない。平和だ。今日も国は回る。
——その“回り方”が、誰の手で整えられているかを、誰も数えないまま。
*
会議室は朝の光で満ちていた。
窓の外には王都が広がり、人が動き、市場が開き、煙が上がる。生きている国の景色だ。
改革案の議題が並ぶ。
宰相の言葉は簡潔で、英雄の存在は心強く、官僚たちの表情は明るい。誰もが「良くなる未来」を見ている。
アルトだけが、「壊れる未来」を見ていた。
しかもそれは、誰かが悪いから壊れるのではない。正しく、速く、善意で進めた結果として壊れる。
決定は早かった。
「制度設計官アルト=レイヴン」
宰相が立ち、名を呼ぶ。
「君は北方領の監督官に任じる。物流改革の現場指揮を取れ」
追放、とは言われない。
左遷、とも言われない。
紙の上では、栄転にすら見える。
会議室に拍手が起こった。
静かな、礼儀正しい拍手。国が誰かを“配置換え”するときの音だ。
リオが青ざめた。
改革派は安心したように頷き、セインは笑顔を作った。宰相は揺るがない。
アルトは立ち上がり、深く一礼した。
「承知しました」
そして、付け加えるように言った。
「ただし、“私がいる前提”で作られた部分は、削除してください」
拍手が一瞬だけ止まった。
宰相が眉を動かす。
「どういう意味だ?」
「制度の設計図に、空白欄があります。そこは、私が埋めていました。私がいなくなるなら、空白のままでは危険です」
官僚たちは困った顔をした。
空白欄? そんなものは書類のどこにも書いてない。見えるのは決裁と予算と条文だけだ。
宰相は少しだけ口角を上げた。
「心配は無用だ。制度は人に依存しない。だから改革する」
アルトはそれ以上言わなかった。
正論に、言葉をぶつけても勝てない。勝ってはいけない。国に必要なのは、勝者ではなく、回る仕組みだ。
会議は次の議題へ進み、彼のことはもう過去になった。
国は、前へ進む。速く、透明に、正しく。
アルトは会議室を出て、廊下の窓から王都を見下ろした。
太陽が昇り、街は黄金色に輝いていた。
その光の中で、彼は思う。
——正しい歯車は、音を立てない。
音を立てないまま、外される。
*
記録室に戻ると、机の上に書類の束が置かれていた。
リオが、震える手で封を切りかけている。
「アルトさん……これ……」
「俺の引き継ぎか」
「はい……でも……」
アルトは束を受け取り、最後のページを開いた。
そこには、制度設計図の写しがあり、欄外に小さな枠が印刷されている。
《失敗時の吸収処理:____________》
空白。
誰も触れない空白。
そこにこそ、彼の仕事があった。
アルトはゆっくりと紙を伏せた。
「……リオ」
「はい」
「今日の会議資料、君の別紙は預かった。三ヶ月後に効く」
「アルトさん、北方へ行ったら……戻ってきますよね?」
「戻る理由が、国に残っていればな」
リオは唇を噛み、言葉を失った。
アルトは立ち上がり、窓の外を見た。国は今日も平和だ。白い封蝋の報告書が積み上がる未来を、誰も疑わない。
その未来が、いつまで続くかも。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




