嘲笑の音がする
最高で最悪な四人組が結成された。
「次が最終問題ね。先生の名前は何でしょう?」
ヒーローショーの司会に向いてそうな先生が声を一段と張り上げて言った。覚えてねーとか、英語関係ないですよーとか、頭上から見下ろした声が教室の至る所から聞こえる。高校生にもなって班対抗のクイズ大会にはしゃいでいる人達は全員、授業が五分押しただけで陰口を叩いていた人達だ。
「僕ちゃん」
正面に座るシーさんの甲高い声に、僕は目ん玉だけを向けた。
「僕ちゃんって、好きな人いるの?」
あなたに関係ありますかって言ってやりたいけど、そんな度胸はない。
「いないよ」
木の机に向かって、お前に関係ねーだろって口を閉じたまま呟いた。
僕の横に座るビーは、シーさんに絡まれないように先生の名前を懸命に思い出すふりをしている。教壇で自己紹介するのを嫌がって、初回の授業を休んだくせに。
「◯◯、先生の名前、何か思い出した?」
「いや、全然」
あの子の瞳に僕が映っている現象に動揺して、目を伏せた。
「俺も全然。覚えてないよな」
あの子の前では同意の頷きさえ硬くなってしまう。
シーさんからは右脳すら使っていない名前で呼ばれ、同級生からは「女で僕って」と鼻で笑われている人間に話を振ってくれるのは、あの子だけだった。文武両道を謳う貴校の新生徒会長は、演台で制服の自由化を一番の公約に掲げた。僕のためだと思った。
「ねえ、私達の班一位じゃない?」
ビーに肩を叩かれ、僕は黒板に目を移した。
「一位はそこの、三班です。おめでとう。みんな拍手」
先生だけが白いフリル袖を揺らした。
「三班の人達は取りに来てね」
先生が配りに来てよと思いながら、教卓に転がっている小さい板チョコを取った。
「私、これ大好き」
チョコに目がないビーには、バレンタインの残飯が一等賞品に見えたらしい。
親にはビーは友達と話しているが、本人に言ったことはないし、言われたこともない。僕が先生に当てられたときも、クラスから標的にされたときも、喉に重りをつけた声が聞こえてきたことはない。やっと「僕」と言える友達に出会えたと思っていたのに。
気分ではないチョコを舌にのせ、知らない人の机を運んだ。
黒板横の掲示板には、今日から掃除場所を代えられた人で群れができている。
「ねえ、掃除場所見た?」
他人のリュックを足でかき分けながら、ビーがこっちに寄ってきた。
「見たよ。教室だった」
「え、いいな。私、体育館」
無愛想が際立つ顔をされても、あっそうって感じ。昨日まで僕の名前がそこにあったんだよ。
「あーあ、これから帰るの遅くなる。あの先生、終わるの遅いし」
通らない声を活かして、二メートル先に嫌味を言っている。
「教室は誰がいるの?」
「えっと……」
張り出されたプリントの文字が見えるフリをして探した。
「あー、あいつか」
ビーはシーさんの名字を見て、ゴーヤを食べたときの顔をした。
「あいつはどうせサボって来ないよ」
そういや、いつかの昼休みに「小学生のとき、落ち葉拾いだけしてゴミ捨てには絶対に行かなかった」と、ちくわキュウリを食べながら愚痴っていたことを思い出した。
「体育館の人ー、行きますよ」
バスガイドに連れられて、ビーは敷居を跨いだ。
「僕ちゃん、一緒に黒板しよう」
サボり確定なシーさんからの誘いに小声で頷いた。もちろん黒板なら一人でも全うできると判断したからだ。
「うわ、チョークめっちゃ付いてる」
シーさんに払い除けられた粉達が僕のブレザーまで逃げてきた。
「眠いねぇ」
「そうだね」
喉だけで返した。
「そういえば昨日、あの子とビーが一緒に帰ってたんだよ」
「え、ああ、そうなんだ」
二倍に開いた目を見られないように瞬きと共に俯いた。
「しかも手をつないで。いいよねぇ」
また喉だけで返した。
気が利かない蛇口で洗ったあと、ゲソ痕が付いたリュックを背負って、敷居を踏んだ。朝の天気予報通り黒い雲は家までずっと続いていた。
積雪予報も昼には雨に変わり、水たまりだけが残っている。風が肌にしみる日でもビーは四時間目が終わると、廊下に立って僕を待っている。天井から重たい風が吹いている教室より、風が通り抜ける渡り廊下近くのベンチで食べたいらしい。
「寒いね」
「そうだね」
「北海道ってもっと寒いよね」
「まあ、そうだろうね」
「てかさ、シーの友達、隣のクラスの子ね、修学旅行来ないらしいよ」
「そうなんだ」
「絶対に一緒に回ろうって言ってくるよ。マジで嫌だ。あいつ私に嫌われてる自覚ないんだよね。小学生のときさ、鉛筆に付いてたキャップを盗んでも気付かなかったし。失くしたってずっと騒いでた」
正直、シーさんとの幼馴染エピソードなんかに興味はない。昨日は聞きたいことも言いたいことも口走るほどあったのに、本人を前にすると何も発することができない。
「食べ終わったら、図書室行っていい?」
「うん、いいよ」
借りた本を持ってきている時点で、権利がないことは分かっていた。
先頭を歩く先生が自動ドアに近づくと、肌を刺すような風が入ってきた。新千歳空港からバスに乗り込むまで、雪の壁がそびえ立つ道を歩いた。僕の前を歩いていたビーが予約席みたいに窓側に座ってから、横に人がいるだけマシだと思えるまで、少しの時間を要した。
何度しおりを見返しても二日目と三日目のスキーが印刷ミスにならなくて、リュックの奥にねじ込んだ。
分刻みの観光と時間が腐るほどあるスキーを僕は淡々とこなした。初心者コースを選んだはずが、スキー歴二日で山頂から滑らされたときは、さすがに呪ってやろうかと思った。この人は好きで始めて、すぐに滑れた人なんだろうなと諦めた。もし大学生になって誘われても絶対に断ると誓った。
高校生の体力を過信している先生達は、これから小樽での自由行動を企てている。窓側に居座るビーがどうでもよくなるくらい、瞼は重力に逆らえなくなっていた。
「ねえ、着いたよ」
次に瞼が開いたときには、バスはもう動いていなかった。
「はい。小樽に着きました。集合時間の五分前には絶対に戻ってきてください」
担任の合図に不揃いに立ち上がっていく中、僕は一人座ったままリュックに手を伸ばした。中心部に座る僕らが降りられるまで耐えられる足はもう残っていない。さっきからずっと筋肉が傷付いた感覚と共に悲鳴を上げ続けている。
「行って」
ビーに腰を押されて降りると、太陽がたった今消えた空が浮かんでいた。
「まずは……」
ホテルで食べる用のスイーツを探すビーは、入場行進みたいに足を上げている。山頂に登るリフトに並んでいるときから、ビーがインストラクターのそばを離れることはなかった。スキー板を履いている間は、手を出せば握ってくれる距離を保っていた。
「大丈夫。あなたはできるよ」
なんて無責任なことしか言われなかった僕とは大違いだった。
ビーに誘導されるまま、凍った歩道をひたすら歩いた。帰り道を考えると白い息しか出ない道を歩いて、気付けば街灯を頼る時間になっていた。ビーは片手に自分用と家族用の土産を持って、ゆっくり僕の半歩後ろを歩いている。
「ねえ」
首だけ振り返ると、手を少しだけ出していた。
この手をインストラクターもあの子も握っていたのか。そう思うと、この手に触れたくないと思ってしまった。
「ごめん。僕トイレ行きたいから、先戻ってて」
相手に権利を与えないまま、顔を背けた。自分の爆弾を冷やすのが精一杯で、ビーの顔色を吟味する余裕は残っていない。
凝り固まった表情筋を引っさげてバスに乗り込むと、ビーは相変わらず窓側に居座っていた。
「おかえり」
通らない声も変わらない。でもなんか、頬をつり上げた顔をしている。
「ただいま」
足の置き場所がない座席に腰を下ろし、ペットボトルのお茶を飲んだ。
ホテルに着くまでビーは僕の肩を枕にして寝ていた。一時間以上、肩にかけられた負担がうっとうしくて仕方がなかった。
新千歳空港でビーが行きたがっていたみそラーメンを最後の昼餐にしたがっていることに僕は全然気付かなかった。
週明けに会ったビーは、心が死んだ日本人形みたいになっていた。何を聞いても、何を言っても、ぶすっとした顔で「うん」しか言わない。ここまで分かりやすいのは初めてだ。
でも弁当は一緒に食べるらしい。英語の教科書を机に入れながら観察すると、修学旅行後の土日で読むには分厚すぎる本と弁当を持って廊下に立っていた。あの顔で横を歩かれるのは迷惑な話だが、他に弁当を一緒に食べてくれる人が僕にはいない。無言で近づくと、無言で歩かれた。
先生の服装から汲み取れる惚気話に無駄な時間を食ったせいで三分も遅れたが、凍えるベンチには誰も座っていなかった。
誰かと食べた方がおいしいと評判のご飯がおいしくない。顎を動かすだけの運動に成り下がっていた。
弁当を食べたあと、付いてこなくていいと言うように図書室へ向かった。僕には一言すらなかった。
「黒板の人も手伝って」
上げたイスを下ろす作業を手伝わされると悟ったシーさんは、どこかへ行ってしまった。気持ち丁寧に下ろしていたイスだって今はどうでもいい。イスの足がリュックに当たろうが、机が列からはみ出していようが、興味がない。僕の気持ちも完全に死んだみたいだ。
次第にビーの視界に僕が映っていないことを知った。四時間目が終わると、渇いた手をひっくり返してシーさん達に話しかけるようになった。二人の半歩後ろを歩くひっつき虫はあまりにも可哀想に見えた。
そして、ビーは学校にすら来なくなった。
四時間目のチャイムと同時に僕は教室から抜け出し、中庭のベンチで手を赤くしながら食べる。これが最近のルーティンだ。葉っぱが落ちた木々に囲まれて、「寒いね」なんて言い合える相手もおらず、心でクソ寒って呟くだけ。
「○○」
誰かに存在を知られた恐怖で振り返った。黒いスニーカーに第一ボタンまで閉めた首元。顔を見なくても分かる。あの子だ。
「ここで弁当食ってるの?」
手遅れでも、空になった弁当箱を隠さずにはいられなかった。ショッピングモールも一人で歩けるし、欲しい物は誰にも知られたくないと思っている。でも学校では、この制服を着ている間は、独りだと思われるのが怖くて恥ずかしくてたまらない。学食へ向かうあの人だって、隣に歩いている人がいなければ僕と同じはずなのに。
「俺もここで食っていい? 体育館で食おうと思ったら、野球部の奴らがいて」
「うん。どうぞ」
左尻の面積だけ移動した。
「ありがとう」
あの子の横顔を眼が捉えると、脳が誤作動を起こして、心臓が痛むくらい頻繁に脈打っているのを感じる。
「◯◯って、いつもここで飯食ってんの?」
あの子の首がこっちを向くと感知した瞬間、僕の首は前を向いた。
「本当はあったかいところで食べたいんだけど、教室は誰かが座ってるし、他に食べるところなくて」
「俺も一緒。明日もさ、ここに来ていい?」
「へ」と「え」がまじったような声が出た。
「うん」
小さく何度も頷くと、あの子はおにぎりにえくぼを見せて頬張った。
今日は昨日より一度高い晴れ予報なのに。あの子が来ない。隅っこに座るのをやめて、背中の空気を吐くと、俯いたあの子が駆け寄ってきた。
「遅くなってごめん」
「全然」
こんなときに愛嬌で胃がむかつく言葉が出たらな。
「ちょっと急用で」
「そうなんだ」
「待て」ができなかった僕の隣に座るあの子は、赤で染まっていた。眼が見たくて、見てほしくて、覗き込むと、涙で満ちた目があった。
「ごめん」
僕を捉えて逸らすシャイさがたまらなく愛おしいと思った。拒絶されない確信があれば、抱きしめて頬を合わせてしまいそうだ。
「ごめん、大丈夫だから。飯食おう」
「味するの?」
「……どうだろう。分かんない」
赤くした目尻にシワをつくって笑って見せた。
致死量のあの子を浴びて、僕は「今日も寒いね」なんて言いながら、赤というかほぼ紫の手を擦り合わせる。
「使って」
ブレザーのポケットから差し出されたのは、折り目が付いていないカイロだった。
「いいよ、大丈夫」
「窪井が大丈夫でも俺が大丈夫じゃない」
「……ありがとう」
僕の手が一気に赤く戻っていくのをゆっくり見ていた。
今日の雲は降水確率四十パーセントの色をしている。
「窪井、これあげる」
あの子の親指の爪が僕の運命線を辿った。
「チョコ? いらないの?」
「俺あんまり甘いのは……」
「そうなんだ。英語のクイズ大会ですごい頑張ってたから好きなんだと思ってた」
「ああ、あれは、一応授業だから」
「確かに。ありがとう」
僕の嫌いなホワイトチョコだけど、一応受け取った。
今日は憎いことにコンタクトレンズのような雨が降り続いている。数日ぶりの無会話帰宅に、人間を支柱にしていた脆さを痛感した。
「◯◯さん、ちょっといい? 聞きたいことがあって」
掃除が終わって無会話帰宅を成し遂げようとしたとき、担任の先生に呼び止められた。
「最近、蒼野くんと昼ご飯食べてるよね」
職員室に向かう廊下で先生は僕とあの子の秘密に触れた。
「もちろん仲いいのは全然いいんだけど。実は今日、蒼野くんが傘を差しながら一人で食べてたらしくて」
単語の意味を理解して想像するまでに時間がかかった。驚きで喉を力めなかったのは初めてだ。
「それで話を聞いたら、○○さんを待ってるって言ってたから。とりあえずね、とりあえず」
皮膚では笑ってるけど、筋肉では笑っていない顔だ。
「でも珍しいね。少しびっくりしたよ」
先生に見せていた虚像が少し歪んだ音がした。
職員室の前には、自立して待っているあの子がいた。先生はあの子に生徒会長としての理想像を植え付ける仕事を果たしたあと、職員室に入っていった。僕は本当にコサージュ要因だったらしい。
「今日どこで飯食ったの?」
そんな僕が悪いみたいな顔しないでよ。悪いのは降り続いている雨でしょ。
「空き教室だけど」
「どこの?」
「クラスの横にある」
「ああ、あそこか。全然気付かなかった」
本当は一階のトイレだけど、別に言う必要を感じなかった。
「なんで傘なんか差して。風邪引くよ」
「独りで食うより、誰かが来るかもしれないって思って食う方が寂しくないから。窪井もそうじゃないの?」
「そうだけど」そうじゃないよ。
あの子を鏡だと思っていたドリームスクールが醒め始めているのを感じた。
「帰ろう」
シワのない背中に惹き寄せられて、駐輪場まで来てしまった。
「ごめんな、窪井。歩きなのに」
「全然」って言っているかのような愛想を向けた。初対面で喋る内容と黙った空気に困ったときに使う愛想を。
「俺、こっち。なんだけど」
北門を指して、僕に家の方向を尋ねた。
「あっち。だから」
反対側の正門を指して、別れを促した。
「じゃあ、また」
「うん、またね」
確実に家に近づいているのに、駐輪場まで行った無駄をどうしても愛することができなかった。
週明けの朝は、ベッドから足を下ろすだけで心が痛んだ。でも昼休みになれば、良心に操作されてあのベンチへ向かっていた。
「大丈夫だよ、蒼野くん」
優しさをたっぷり含ませた甲高い声が僕の足に重りをつけた。枯れた木々の隙間から見えたのは、あの子を抱きしめたまま頭をなでているシーさんの姿だった。
「私がいるから。私はどこにも行かないよ、ね?」
「俺のこと、嫌いにならない?」
「ならないよ、私は」
眼の前の光景に脳がストライキを起こした。あの子が泣いていて、シーさんがあやしている。そして、あの子の赤くなった頬を親指で拭っている。
「朱花は、俺を独りにしないよね? 俺、朱花がいないと」
自分の足だけで立つことができないあの子に、幻滅を通り越して怖さを覚えた。あと百歩くらい踏み込んでいたら、僕がシーさんのところにいて、安心させるための言葉を口にしていたのかな。気持ち悪って思いながら。
「あ、僕ちゃん。来たんだ」
ずっと前から視界に入っていたはずの僕を目で見た。
「蒼野くん、鏡見てきた方がいいよ」
「うん」
僕とは眼も合わせずに横を通って行った。
「僕ちゃん」
先週まで居場所だった席から聞こえる声に、僕は身体ごと向けた。
「僕ちゃんって、好きな人いる?」
「いないよ」
今は別に見抜かれてもいいと思った。
「そっか。座る?」
あの子の体温が残った席を勧められたが、そんな気分ではない。
「いや。大丈夫」
「僕ちゃんは蒼野くんのこと好きだと思ってたけど、違ったんだね」
断りを聞いた瞬間、待ってましたと言わんばかりに建前を壊してきた。
「僕ちゃんが好きだったのは鏡だったんだね。自分の思い通りに動いてくれる存在。でも一人になると、自分が一人なのは学校のせいですみたいな顔して。僕ちゃんが一人なのは、学校のせいじゃなくて自分のせいだよ。人に興味ないですみたいな顔してるから。冷たいって分かってるのに、手を差し伸べてくれる人はいないよ。みんな賢いから。ちゃんと嫌われそうな部分は隠さないと。所詮、数年の友達なんだから。あ、また偉そうに言っちゃった。こういうところがビーに嫌われるんだよなぁ」
説教なのか、独り言なのか、よく分からないが、いいことを言ってるっぽいのは分かった。でもそれより、お腹が鳴って聞こえてしまいそうだ。
「まあ、僕ちゃんには既に嫌われてるからいいか。僕ちゃん、もう一回聞くけど座らなくていいの? 食べる時間なくなっちゃうよ」
「でも……」
首が勝手にトイレの方を向いていた。
「蒼野くんなら来ないよ。彼はそういう人だから」
二十年連れ添った夫婦みたいな言葉だ。
「じゃあ。いただきます」
あの子の体温が消え失せた席で、お腹を静めるために弁当箱を開けた。
「僕ちゃんは私の話をラジオみたいに聞いてくれるから助かるよ。ビーはすぐに遮ってくるから。昔から私を困らせるのが好きだったから、蒼野くんも奪おうとしたのかな。蒼野くんにね、ビーと一緒に帰るように言ったの私なんだ。ビーはあなたのこと好きだよって、だから一緒に帰りなよって。そしたら蒼野くん、ビーのためにクイズなんか頑張っちゃって。私はただ、ビーが飽きてくれたらそれでよかったのに」
怒っているのか、悲しんでいるのか、よく分からない。だけど、ここで食べる弁当はおいしくない。
「だから僕ちゃんと一緒に食べてたのも、私が言ったからだよ。特に僕ちゃんは、本当の蒼野くんを見せるのが一番早いと思ってたから」
へえって感じ。そんなことより心臓がしんどくて、もうどうだっていい。
向かいの廊下を一人の女の子が歩いているのが見えた。一冊の教科書と一個の筆箱を持って、僕達の存在に気付こうともせずに教室へ入っていった。
「じゃあ、そろそろ」
おかずにならないトマトを食べて、地に足をつけた。
「あ、もう嫌われてるから言うけど、『僕』って広めたの私だから」
「は?」
「蒼野くんがいけないんだよ。蒼野くんが僕ちゃんのこと見てたから」
そんなクソみたいな理由で僕は地獄に突き落とされたのか。あー、泣きたい。泣いて、泣いて、成功者が言う「好きに生きよう」で励まされたい。隣にメンバーがいるボーカルの「ひとりじゃないよ」が聴きたい。
「なんで『僕』って言うの?」
お前だって嫌われる部分隠せてないじゃん。自分語り嫌いなんだよ。これらを押し殺した反動で声が震えないように周辺の酸素を吸い込んだ。
「朱花ちゃんには関係ないでしょ」
図書室付近のトイレに逃げるまで、僕は一度も顔を上げなかった。
掃除で顔を合わせても、お互いブレザーに付いたチョークを払い除けるだけだった。
先生が悟ったシーさんを探しに行ったのを見送って、僕は無防備に置いてある出席簿に手を伸ばした。見るのが好ましくない行動だと分かっていたが、好奇心には勝てない。ビーの名前は探さなくても見つかった。名前の中心にボールペンで線が引かれている。
「◯◯?」
生徒会長と目が合ったため、何度も確認することはできなかった。でもビーがこのクラスの一員から離脱したのは確かだ。
教室移動のために出席番号順に並べ終えた机達を見ても、ビーの席は消されていた。退学した理由を先生やめんどくさい女子から聞かれることはなかった。
「これ、英語の……先生が結婚して学校をやめるらしいから、一言か二言くらい書いて出して」
春休みが明けて早一週間。あの先生が寿退社することを知った。気持ちのこもっていない祝福を束になって渡されても、あの先生は嬉しがることだろう。でも気持ちを数で補おうとする人は、独りをまだ知らない人だ。
そんな僕は新しいクラスになっても独りだ。嫌われそうな部分を今更隠したところで、話しかけてくれる人はいない。人生に遅いことだってある。
明日も通る予定の正門を跨いで顔を上げると、自転車を押したあの子とシーさんが前を歩いていることに気付いた。片手で押して、片手でつないで。いいな。僕の隣には今日も誰もいないのに。