水哀霊(中)
物事には因果があります。
因果を断つことは容易なことでは、きっとないのでしょう。
まして、応報する先すらないものたちにとっては。
蒼を救う――そのためには、美泥渕の本体を叩くしかない。
僕の脳内では、既にその結論は確定していた。だが、闇雲に突撃するだけでは、無駄死にするのが関の山だ。僕は、愛する人を救うために、どんな深淵へも身を投じる覚悟を決めた。だがそれは、犬死にしてもいいという意味ではない。
僕は、まず一つの根源的な問いに立ち返ることにした。
――そもそも、この美泥渕が心霊スポットとなったルーツは、一体何なんだ?
敵の正体、その起源を知ること。それが、僕の研究者としての、最後の仕事だった。
僕は、大学の図書館の、最も奥まった場所にある郷土史のアーカイブに籠っていた。カビと古い紙の匂いが立ち込める中、僕は、あの周辺地域の、忘れ去られた歴史を紐解いていく。
町の役場にも足を運び、閲覧を許可された古い戸籍や土地台帳のマイクロフィルムを、一日中、睨み続けた。最初は、何も見つからなかった。美泥渕は、ただの、名もない沼として、地図の隅に存在しているだけだ。
だが、いくつかの断片的な記述を繋ぎ合わせた時、そのおぞましい輪郭が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
江戸中期、この地を襲った大飢饉の記録。餓死者が道端に溢れ、人々は、その遺体を埋葬する余裕もなく、名もない沼へと遺棄した、と。
明治時代、この地域で流行した疫病。村八分にされた病人の一家が、その沼に身を投げた、という、新聞の三面記事。
ここは、そういう場所なのだ。
長い年月をかけて、この土地の人々の、行き場のない死と、哀しみと、そして有機物としての肉体が、ただ、ひたすらに蓄積されてきた場所。
そして、一つの記述に、僕は目が留まった。
昭和の後期。度重なる水難事故を鎮めるため、地元の有志によって渕のほとりに小さな地蔵が建てられた、と。記録によれば、不思議なことに、地蔵が建てられてから数年間、水難事故はぴたりと止んだらしい。
だが、平和は長くは続かなかった。
ある夜、何者かによって、その地蔵の首が落とされたのだ。犯人は見つからず、ただ、冒涜的な所業だけが残された。
そして、その日を境に、怪異は再び始まった。以前よりも、遥かに凶悪な形で。人々は畏怖を込めて、それを『首無し地蔵』と呼び、完全にその地を禁足地とした。
僕は、仮説を立てた。一度は鎮魂の祈りを集めて怪異を封じていた地蔵が、首を落とされるという悪意に満ちた行為によって穢され、今度は、より強力に、負の感情を凝縮させる『核』へと変質してしまったのではないか、と。
その日の夜、僕は研究室にいた。黙々と、最後の準備を整える。
もはや、実験用の小瓶やスプレーボトルでは足りない。僕は、農薬散布などに使われる、五リットル容量の携帯用噴霧器を二つ、ホームセンターで調達してきた。そのタンクを、数時間かけて精製した、純度99.999...%の超純水で満たしていく。バックパックには、調査機材と、そして、超純水を詰めた。
これで、僕にできる準備は、すべてだ。
すべての準備を終え、僕はスマートフォンの通話ボタンを押した。数コールで、電話の向こうから、か細い声が聞こえる。
「……もしもし?」
「僕だ。蒼、起きてたか」
「うん……なんか、眠れなくて」
その声は、ひどく弱々しく、遠い場所から聞こえてくるようだった。僕は、胸が張り裂けそうな思いを押し殺し、努めて明るい声を作った。
「ごめんな、こんな夜中に。明日から、泊まりでゼミの調査が入ってさ。二、三日、連絡がつきにくくなるかもしれない」
我ながら、稚拙な嘘だと思った。だが、蒼は、それを疑う素振りも見せない。
「……そっか。調査、がんばってね」
「ああ。……蒼も、ちゃんと食べるんだぞ。水ばっかりじゃなくて」
「うん……」
「じゃあ、また」
「……うん。気をつけてね」
それが、最後の言葉だった。彼女の、その一言が、僕の中で、最後の覚悟を固めさせた。電話を切った後、僕はしばらく、何も映らないスマートフォンの画面を、ただ、見つめていた。
翌日、僕は大学の駐車場に停めていた、自分の使い古したハッチバックに乗り込んだ。助手席と後部座席には、今回の遠征のために用意した装備が、無造作に詰め込まれている。
カーナビに、記憶の中の地名を打ち込む。表示されたルートは、都会の喧騒を抜け、徐々に緑の深い郊外へと僕を導いていく。一時間ほどのドライブ。あの夜、高木のミニバンで通ったのと同じ道だ。だが、一人で運転するその道は、全く別の、不気味な表情を見せていた。
美泥渕に到着した時、時刻は、まだ昼下がりを少し過ぎた頃だった。日中のうちに、できるだけ調査を進め、有利な状況で事を運びたかった。僕は、まず例の地蔵を探した。古い記録を頼りに、渕の東側の、ひときわ木々が鬱蒼とした一角へと、ぬかるむ岸辺を進んでいく。
だが、その道のりは、僕の想像を絶するほどに困難だった。
頭上を覆う木々の枝が、昼の光を遮り、あたりは薄暗い。足元は、粘土質の泥がブーツに絡みつき、一歩進むごとに、ずぶり、と重い音を立てて体力を奪っていく。
森の音が、消えた。聞こえるのは、自分の荒い息遣いと、心臓の音だけだ。腐敗臭に混じって、鉄が錆びたような、血の匂いが微かにする。
GPSは上手く働かず、コンパスですら奇妙な動きを繰り返し、ほとんど役に立たない。同じ場所をぐるぐると回っているような、不快な錯覚。まるで、渕そのものが、僕という異物の侵入を拒み、その中心部を隠しているかのようだった。
どれほどの時間が経っただろうか。焦りと疲労で、思考が鈍り始めた頃、僕は、ふと、目の前に立つ巨大な柳の古木に気づいた。
――あった。
息を切らしながら駆け寄ると、その根元に、半分土に埋もれるようにして、それは存在していた。苔むし、黒ずんだ、小さな石の地蔵。その名の通り、首から上が、ごっそりと失われていた。
僕は、その場にバックパックを降ろした。だが、安堵したのも束の間、空を見上げて愕然とする。
いつの間にか、太陽は西の稜線へと沈みかけていた。空は、赤黒い夕焼けに染まっている。
それほど時間をかけて歩いたつもりはなかったのに。
――夜になってしまった。
まるで誘い込まれたかのような怖気が、僕の背筋を静かに侵食していく。
渕を渡る風が、急速に温度を失っていくのが、肌で感じられた。腐敗臭が、その濃度を増していく。
だが、もう、引き返すという選択肢はない。
僕は、噴霧器の一つを背負い、もう一つを手に提げた。そして、ヘッドライトのスイッチを入れる。白く鋭い光が、夕闇に沈みかけた地蔵の、首のない断面を、無慈悲に照らし出した。
ここが、決戦の地だ。
僕は、ゆっくりと、その首無し地蔵へと、最初の一歩を踏み出した。