水哀霊(上)
エビデンスだけでは手立てがない場合というものは、しばしば存在します。
未知の領域、そこに踏み入れる覚悟が、必要なのです。
研究室での一件は、僕の物語の潮目を変えた。
逃げることしかできない羽虫から、小さいとはいえ牙を備えたげっ歯類に進化したとでも例えようか。
超純水、それは科学の通じない暗渠に挑むにはあまりにも頼りないとはいえ、一応の武器であると言えよう。
だが、その光明は、同時に、より深い絶望の影を落としていた。
研究室の汚染は止まった。だが、蒼の身体を蝕む汚染は、今もなお、進行している。
僕は、蒼のアパートを訪れる頻度を増やしていた。
彼女を、そして彼女の中で蠢くそれを、観測するために。
チャイムを鳴らすと、以前よりも長い時間を置いて、ゆっくりとドアが開いた。
「……あ、いらっしゃい」
そこに立っていたのは、紛れもなく相瀬 蒼だった。だが、彼女は、僕の知っている蒼ではなかった。
まず、匂いが違う。締め切った部屋の、淀んだ空気。
換気はしているはずなのに、もはや部屋の隅々にまで、甘い腐敗臭と湿気が染み付いている。
そして、蒼自身の変化。
肌は、陶器のように白くなっているが、それは健康的な白さではない。血の気を感じさせない、まるで水に長く浸かったような、不自然な白さだ。そして、常にじっとりと汗ばんでいるかのように、湿り気を帯びている。そして、あの沼の水に晒された両手と膝から下は、まるで水の跳ねた跡のような緑の斑点が彩られるようになった。まるで呪いのマーキングだ。
「ごめん、ちょっと散らかってるかも」
彼女は力なく笑うが、その笑顔ですら、どこか薄い膜を一枚隔てているかのようだ。以前の快活さは影を潜め、その瞳は、時折、焦点が合わずに宙を彷徨う。
僕の視線の先、テーブルの上には、無造作に転がる2リットルのペットボトルが、昨日訪れた時よりも、明らかに増えていた。
「喉、乾くの?」
「うん……なんか、飲んでも飲んでも、すぐ喉が渇いちゃって。身体の中が、ずっと乾いてるみたい」
乾いてる? こんなにも、その身も、部屋の空気も、潤っているというのに。
僕は、彼女のその言葉に、背筋が凍るような感覚を覚えた。
彼女は、乾いているのではない。
彼女自身が培地となり、その内側で増殖する何かが、彼女の身体から、その命を際限なく奪い続けているのだ。
これ以上、座して待つことはできない。
僕は、意を決して、白衣のポケットから小さなガラス瓶を取り出した。中に入っているのは、研究室で精製した、超純水だ。
「蒼。これ、飲んでみてくれないか」
「……なに、これ? ただの水?」
蒼は、不思議そうに小瓶を覗き込む。だが、それを受け取ろうとした彼女の手が、ふと、ためらうように止まった。
「……なんか、やだ。これ」
「どうして」
「わかんない。でも、すごく、まずそう。味がしない、とかじゃなくて……身体に、悪そう」
拒絶。
彼女ではない。彼女の中にいる「何か」が、本能的に、この絶対的な『無』を、毒物として認識しているのだ。
「お願いだ、蒼。僕を信じてくれ。これは、きっと、君のその“渇き”を癒してくれるはずだから」
僕の必死の形相に、彼女は一瞬、いつもの、僕の知っている蒼の顔に戻った。そして、困ったように笑い、こくりと頷いた。
「……わかった。」
彼女は、意を決したように小瓶を受け取り、その中身を、ほんの一口だけ、口に含んだ。
次の瞬間。
蒼の喉から、ひっ、という、引き攣ったような音が漏れた。
「かっ……あ……!」
彼女は、両手で自分の腹部を強く押さえ、その場にうずくまった。顔は蒼白になり、額には脂汗が浮かんでいる。
「蒼! 大丈夫か!」
「……いった……い……。お腹の、中が……燃える、みたいに……」
燃える? 違う。これは、熱ではない。
僕の脳裏に、あの実験室の光景が蘇る。超純水の霧を浴び、その存在を破壊され、崩れ落ちていった、あの女の姿。
今、蒼の身体の内側で、同じことが起きているのだ。
僕の武器は、彼女を蝕む怪異と、そして、怪異に蝕まれた彼女の細胞そのものを、無差別に攻撃している。
これは、治療などではない。
毒を以て、毒を制するだけの、あまりにも暴力的な行為だ。
数分後、蒼は、ぐったりとベッドの上で浅い眠りに落ちていた。苦痛は和らいだようだが、その消耗は、見ていられないほどだった。
僕は、眠る彼女の顔を見つめながら、絶望的な事実を、改めて認識していた。
駄目だ。この方法では、蒼は救えない。
彼女につけられた緑のマーキング、それが消えていない。
それはそうだろう、彼女の身体そのものが、汚染の発生源なのだ。内側から、際限なく怪異が培養され続けているのだ。
彼女を救うためには、対症療法では駄目なのだ。
ふと、僕の脳裏に、研究室の無線LANが浮かんだ。親機であるルーターがあり、その電波を受けることで、子機であるPCやスマートフォンが機能する。もし、親機の電源を落とせば、子機はただの箱になる。
研究室で起きた、あの現象。僕の研究室にあった個体を駆除したことで、フロア全体の汚染が停止した。あれは、僕が、その場の中継器のような存在を破壊したからに他ならない。
蒼の体内の汚染も、同じではないのか?
彼女は子機であり、その活動を維持するために、発生源である美泥渕から、何らかの“信号”を常に受信しているとしたら?
その大元を破壊すれば。
親機との接続を、物理的に、あるいは霊的に遮断することができれば。
彼女の中の怪異も、いずれは活動を停止し、消滅するのではないか?
根拠は、ある。あの研究室での一件が、何よりの証明だ。
だが、それは、あまりにもか細い、希望という名の仮説。
それでも、僕に残された道は、もう、それしかなかった。
僕は、眠る彼女の、汗で湿った髪をそっと撫でた。
そして、気づいてしまう。その髪から、微かに、あの淀んだ水の匂いがすることを。僕の付け焼き刃の武器では、彼女の内側で蠢く暗闇の、その表層をわずかに焼いたに過ぎないのだ。
もう、迷っている時間はない。
僕の顔から、表情が消えていくのを、自分でも感じていた。
研究者としての僕だけでは不足だろう。
彼女を救うためにはデータだけではまだ足りないのだ。
僕は、愛する人を救うためにどんな深淵へも、その身を投じる覚悟を決めた。