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分水霊

物事には潮目の変わる瞬間があり、人はそれを分水嶺と言います。

この瞬間も、誰かの分水嶺が連続しているのかもしれませんね。


 あの夜、学校のプールから逃げ帰って以来、僕の最後の砦であるはずの研究室は、もはや安全な場所ではなくなっていた。


 気のせい……ではなかった。


 空調が一定に管理しているはずの室温とは別に、首筋を撫でるような、じっとりとした冷気。誰もいないはずの隣の実験室から、微かに聞こえる水音。

 僕は、それを自分の精神が作り出した幻覚、あるいはトラウマによる過敏な反応だと、必死に自分に言い聞かせた。科学者としての理性が、そう結論づけたがっていた。


 だが、決定的な異常は、僕の専門領域そのものに現れた。


「……またか」


 僕は、クリーンベンチ――無菌状態を保つための作業台――の上に並べたシャーレを前に、低く呻いた。数ヶ月がかりで培養してきた細胞が、またしても死滅していた。

 しかし、その死はあまりにも奇妙だった。

 通常の汚染(コンタミネーション)であれば、雑菌やカビが繁殖し、培地は白濁したり、コロニーが形成されたりする。だが目の前のシャーレは、違う。ピンク色をしていたはずの栄養培地が、その色を失い、ただの透明な液体へと変貌していた。


 その中で、僕の細胞たちは静かに、形を保つことなく崩れていた。

 まるで、栄養だけを根こそぎ吸い取られたかのように。

 僕が頭を抱えていると、隣の研究室に所属する同期の男が、ひょっこりと顔を出した。


「よう、お前んとこもか?」

「……何がだ?」

「コンタミだよ。うちの系列の細胞、ここ数日で全滅。原因不明。培地の色が抜けるだけで、菌は何も生えてこねえ。気味悪いったらありゃしねえよ」


 僕だけでは、なかった。このフロアの、同じように細胞培養を行っている複数の研究室で、全く同じ現象が、同時多発的に起こっているらしかった。これは僕の知るどんなコンタミネーションとも異なる。


 ――何かが、ここにいる。

 そして、最も栄養価の高い、最も水が合う場所を求めて、僕らの細胞を貪っているのだ。


 その夜、僕は研究室にひとり残った。

 廊下や、実験室の培養機(インキュベーター)を見渡せる位置など、立ち入れる限りの場所に小型の暗視カメラを仕掛けた。

 真実を知るのが、恐ろしかった。だが、それ以上に、僕の聖域が未知の存在に蹂躙され続けることの方が、耐えられなかった。


 翌朝。震える手でカメラを回収し、ノートパソコンで映像を再生する。

 数時間の早送り。静まり返った夜の施設。

 僕の気のせいだったのか――そう思いかけた、そのとき。


 深夜三時過ぎ。廊下を写した画面の中央に、ふっと、陽炎のようなものが立ちのぼった。

 それは、わずかに揺れ、滲み、そして……“形”を取り始めた。

 人型。長く、黒い髪が水に濡れたように垂れている。


 あのプールの女だ。


 彼女は歩いて現れたのではなかった。空気中の水分が凝結するように、そこに“濃く”なっていった。


 恐ろしいことに、いくつかのカメラの中で、同時多発的に彼女達は揺らめいていた。

 

 そのうちの一つ、実験室を写したカメラの中で、女はゆっくりと培養機に近づく。ガラス扉に透き通るような白い手をそっと触れさせた。


 ――次の瞬間。


 ガラスの向こう側、シャーレの中の液体が、女の手が触れた部分から静かに色を失っていった。

 そして、女の輪郭が、ごく僅かに“濃く”なった気がした。



 今夜、彼女はまた現れるだろう。

 あのプールから、ズボンに染みたたった一滴の水を道標にして、ここで最高の培養液にありつくために。僕は決意を固めた。


これはもう観測ではない。駆除だ。


 実験室の隅で精製した超純水のスプレーボトルを、白衣のポケットに忍ばせた。


 深夜、僕は隣の準備室に身を潜め、ノートパソコンのライブ映像に目を凝らす。

 心臓が、肋骨を内側から突き破りそうだった。


 ――来た。


 画面の中に、あの陽炎が立ち上がる。昨日と同じ。女がゆっくりと形を成していく。

 僕は、スプレーボトルを固く握りしめ、息を殺してドアを開けた。

 冷気が、肌の表面から骨にまで届くようだった。

 女は、培養機に背を向け、まだ僕に気づいていない。

 僕が一歩、踏み出す。


 ぎ、ぎ、ぎ――


 女の首が、錆びついたブリキ人形のように、あり得ない音を立てて振り返った。

 長い前髪の奥には、黒々とした真っ黒な眼窩。そしてそこから覗く空虚な不快感。

 腐敗臭と水の匂いが、僕の肺の中を重たく満たす。

 恐怖に膝が震える。思考が凍り始める寸前で、僕はスプレーボトルのノズルを彼女に向け、力の限り何度も引き絞った。



 その瞬間、世界から音が消えた。

 モーター音も、呼吸音も。すべてが吸い込まれたような、完璧な無音。

 女の姿が、激しく波打つ水面に映る幻影のように、ぐにゃりと歪む。


 音はない。それでも、僕の脳にだけ、甲高い悲鳴が焼き付くように響く。

 女の顔が反り返り、口が極限まで開かれる。


 苦悶。拒絶。そして、破裂。


 輪郭がテレビのノイズのように崩れ、黒い粒子となって、はらはらと床に崩れ落ちていく。

 やがて最後の粒子が消え、無音の世界が、音を取り戻した。

 培養槽の機械音と、僕の荒い息遣い。そして、床には濡れた跡と、焦げたような鋭い匂いが残された。




 僕はその場に崩れ落ち、激しく喘いだ。

 だが、それは絶望の喘ぎではなかった。

 やった。効いたんだ。僕の仮説は、僕の武器は、正しかった!

 狂ったような、乾いた笑いが込み上げてくる。


「……終わりじゃない」


 僕は、壁に手をついて立ち上がった。


「僕が持ち込んだんだ。僕が、全部駆除する」


 その夜は、ほとんど眠れなかった。勝利の高揚と、自分が引き起こした事態への罪悪感で、思考がぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。


 翌朝、僕は誰よりも早く研究室にいた。スプレーボトルの中身を補充し、フロアの見取り図を広げ、換気システムの系統図と睨めっこする。これから始まるのは、僕が引き起こしたバイオハザードの後始末だ。同期の男の研究室、他の被害が出ている研究室……それらを一つずつつぶさに回り、汚染の根を断つ。その算段を立てていた、その時だった。


「よう。早いな」


 眠そうな顔で、同期の男が研究室にやってきた。


「ああ……。そっちは、どうだ。コンタミは」

「ああ、それな。それがマジで気味悪いんだけどさ……昨日の夕方以降に新しく立てたプレート、今朝見たら、全く汚染されてねえんだ。ぴたりと、止まった。お前んとこもだろ?」


 僕は、手にしていた見取り図を取り落としそうになった。


「……止まった? 全部?」

「おう。まあ、理由はわかんねえけど、助かったわ。じゃあな」


 彼はそう言って、力なく手を振り、自分の研究室へと戻っていく。

 僕は、その場に立ち尽くした。駆除するはずだった敵は、もう、どこにもいない。


 なぜだ?

 僕が、僕の研究室に現れた個体を駆除したことで、このフロア全体の汚染が止まった。

 増殖した個体も、相互に影響しあっているとでもいうのだろうか?



 僕は、一つの怪異を撃退した。

 だが、目の前には、さらに巨大で、得体の知れない謎が口を開けていた。


 僕がそれをここへ運んだ。科学者を気取って、怪異を追い回した結果がこれだ。

 まるで、実験動物の檻に毒を撒いてしまった飼育者のように。

 滑稽で、愚かで、取り返しがつかない。


 だが、今、僕の手の中には、確かな希望の糸口があった。


 この日、僕の物語は初めて“本当の戦い”へと突入した。

 潮が変わったのだ。

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