死泳域
学校の怪談でプールを舞台にしたものってたくさんありますよね。
じゃあどういうプールには霊がいそうか、というと…。
呼波浜での一件から、数日が過ぎた。
あの夜、僕の名前を呼んだ声は、超純水を撒いた一瞬、確かに途切れた。だが、すぐにまた聞こえ始めたのも事実だ。効果はあったのか、なかったのか。断定するには早計すぎる。
科学者が一つの仮説を証明するためには、それが成立する例を集めるだけでは不十分だ。時には、それが成立しない例――反例を見つけ出し、その条件を特定することの方が、より本質に迫れる場合がある。いわゆる反証可能性。僕の仮説が正しいのなら、その反証もまた、成立するはずだった。
彼らが汚れた水、すなわち有機物が豊富な環境を好むのなら。
その対極である有機物が極めて少ない環境では、彼らは存在できないはずだ。
これを証明できれば、僕の仮説はより強固なものになる。そして、超純水という武器の有効性にも、確かな輪郭が見えてくるだろう。
僕は、その「反証実験」の舞台として、ある場所を選んだ。夜の学校のプールだ。
徹底的に塩素で殺菌、管理された、巨大な水の塊。元の水が上水道から得られたものであることも含めて、有機物はたいへん乏しい。これほど、僕の実験に適した場所はなかった。
僕は大学院生という立場を使い、管理事務室に粘り強く交渉した。表向きの理由は塩素消毒された水中における、夜間での微生物叢の変動に関する定点観測を行うとした。
要するに、夜の間にプールの水質がどう変わるか調べる、という、いかにも理系大学院生がやりそうな、しかし誰にも迷惑のかからない地味な研究だ。担当者は怪訝な顔をしていたが、指導教官の名前をちらつかせつつ、「データを取りたいだけですので」と頭を下げ続け、なんとか夜間の一時的な立ち入り許可を取り付けたのだ。もちろん、本当の目的など、誰にも言えるはずがない。
深夜の学校というのは、それだけで一つの怪談の舞台として成立する、奇妙な磁場をまとっている。闇に沈む校舎、風に揺れる木々の影、どこからか聞こえるきしむような音。だが、その夜、僕が足を踏み入れたプールサイドは、そんな感傷を許さない、絶対的な静寂に支配されていた。
月明かりに照らされた、広大なメインプール。水面は、まるで磨き上げられた青いガラスのように静まり返り、空の月を完璧に映し込んでいる。ツン、と鼻をつく塩素の匂いが、これほど心強く感じられたことはなかった。これぞ、人の手によって管理された、安全な「水」だ。
僕は、まず水質調査キットで水面の水を採取した。結果は、予想通り。残留塩素濃度、pH、そして全有機炭素値、いずれも完璧な管理下の数値だ。
「これなら、ほとんどの微生物は生きられない。ならば、当然――」
僕は、バックパックから取り出した高感度マイクをプールサイドに設置し、ヘッドフォンを装着した。耳に届くのは、微かな風の音と、自分自身の呼吸音だけ。呼波浜で聞いたような、不気味な声はどこにもない。
一時間、二時間と、時間だけが過ぎていく。だが、それはあくまで、管理された実験場での話だ。夜の闇がどこかに潜めている例外までを、僕は考慮していなかったのかもしれない。
やはり、間違いない。彼らにも相応しい環境が必要なのだ。
美泥渕や古井戸、呼波浜のような、豊富な栄養に満ちた場所でしか、彼らはその存在を維持できない。この清浄な水の中では、彼らは飢え、霧散していくしかないのだ。
僕は満足のため息をつき、機材を片付け始めた。これで今日の調査は終わりだ。大きな収穫だった。僕は、ほとんど勝利感に近い高揚を覚えながら、プールサイドを後にした。
校門へと向かう途中、体育館の裏手あたりを通りかかった、その時だった。
僕の視界の隅に、月光にぼんやりと照らし出された、それが映った。
今はもう使われていない、幼児用の小さなプールだった。
メインプールとは対照的に、それは完全に打ち捨てられていた。屋根もなければ、蓋もない。長方形のコンクリートの窪みには、溜まった雨水が、黒く淀んでいる。水面には、腐葉土と、夏の終わりに命を落とした虫たちの骸が、黒い膜のように水面を覆っていた。
メインプールの、あの神聖さすら感じさせる青い水面とは、何もかもが違っていた。
光と影。聖と俗。清浄と、汚濁。
僕は、まるで何かに吸い寄せられるように、その小さな淀みへと、一歩、また一歩と足を進めていた。
近づくにつれて、空気が変わるのがわかった。温度、湿度、そして、匂い。
あの匂いだ。美泥渕で、古井戸で、そして蒼の部屋の排水溝で嗅いだ、あの腐敗臭。
メインプールでは沈黙を保っていた高感度マイクが、この淀みに近づくにつれて、低いノイズを拾い始めた。僕は、ヘッドフォンを耳に当て、息を呑む。
ぶつっ、ぶつっ……と、どこか粘ついた音。低い、呻き声のような振動。
――ここには、「いる」。
僕は、恐怖で逃げ出したい衝動と、この絶好のサンプルを調査したいという研究者の本能との間で、引き裂かれそうになっていた。水質調査キットを取り出そうと、バックパックに手をかけた、その瞬間。
黒く淀んだ水面が、中心から、静かに揺れた。
ぶわり、と水底から広がった髪が、ゆっくりと水面を撫でていく。
風もないのに、水が静かに波打っていた。
その髪の奥から、何かが……“こちらを見ている”という感覚だけが、先に胸を締めつけた。
やがて、水面にゆっくりと、顔のようなものが浮かび上がってきた。それは、苦悶や怨嗟の表情ではなかった。
恍惚。
とろりとした、まるで夢を見ているかのような、悦びに満ちた表情。この腐敗のスープに、その汚濁に、心の底から満足しているかのような、悍ましいまでの幸福感。
僕は、声も出せず、その場に凍りついていた。スプレーボトルを取り出すことなど、思考の片隅にも浮かばなかった。
ただ、逃げろ。逃げろ、逃げろ。
脳が、その一言だけを、絶叫のように繰り返していた。
僕は、もつれる足で、振り返りもせずに走り出した。
全力で校門まで駆け抜け、アスファルトの上に膝をついて、激しく喘ぐ。
なんだったんだ、今のは。
僕は、僕の立てた仮説の本当の恐ろしさを、今、ようやく理解した。
そして、確信した。霊は水が合わなければ存在できないのだ。仄暗い情念を抱えながらも、清らかな水には棲めない……なんと哀しい存在なのだろうか。
後ずさる僕のズボンの裾に、あの淀んだプールの水が、一滴、黒い染みを作っていた。
その染みは、彼のズボンの生地の上で、じわりと広がりながら、乾くことなく黒く光っていた。