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呼波浜

そろそろお盆です。

お盆には海で泳いではいけませんよ。

どこから呼ばれるか、わかったものではありませんから。


 あの井戸での恐怖体験から、一週間が経過した。


 研究室の分析台に置かれたバイアル瓶の中の黒い液体は、僕の仮説が正しかったことを雄弁に物語っていた。全有機炭素値は、美泥渕のサンプルに匹敵する。

 通常値の十数倍――もはや自然環境では説明のつかないレベルだ。あれは、まさしく凝縮された『培養液』だったのだ。


 そして、僕の脳裏には、対抗策のアイデアが芽生えつつあった。

 彼らが、有機物に満ちた、生命の死骸のスープを好むのなら。彼らが最も嫌うのは、その対極にあるもののはずだ。

 栄養がない。生命の痕跡すらない。あらゆる不純物を取り除いた、絶対的な無。


 ――超純水。


 それは、限りなく“何もない”に近い液体。味も匂いもなく、目に見える混濁すらない。ただ、触れると肌がざらつくほどの「無」だった。それが聖水となるか、あるいはただの水として無力に終わるか。まだ確証はない。だが、試す価値はあるはずだ。生物が無機的な何かに変わり果てる、その道筋の果てにある液体。それは、生命の痕跡に集う彼らにとって、劇薬、あるいは毒となりうるのではないか。


 だが、まだデータが足りない。井戸という閉鎖的な環境だけでなく、もっと開かれた場所での症例を調べる必要があった。

 蒼の容態は、幸いにも、あの日以来、目に見えて悪化してはいない。だが、快方に向かっているわけでもなかった。電話口の声はしっかりしているが、時折、会話の端々で、あの虚ろな気配が見え隠れする。僕が何か危険なことに首を突っ込んでいることにも、薄々感づいているようだった。時間はない。僕の焦燥感は、日増しに強くなっていた。


 その日も、僕はネットの海を漂流していた。水難事故の統計データをまとめた、いささか無味乾燥なウェブサイトで、僕の目は、ある一点に釘付けになった。


『〇〇県△△港、西浦海岸における、夜間満潮時の水難事故発生率の特異性について』


 なんの変哲もないタイトル。だが、そのグラフは、明らかに異常なカーブを描いていた。過去十年で、その小さな浜辺だけで、十数名もの人間が命を落としている。それも、ほとんどが夜間、そして潮が満ち切った時間帯に集中しているのだ。



 僕は、すぐさま地名をキーワードに、検索を重ねた。地元のニュースサイト、個人のブログ、そして、あの夜もお世話になったオカルト掲示板。情報は、すぐに見つかった。

 西浦海岸。地元では、その浜はこう呼ばれているらしい。

 ――呼波浜(よぶなみはま)、と。


『夜中に浜辺を歩いていると、沖から手招きされる』

『自分の名前を呼ぶ声が聞こえて、気づいたら海の中にいた』

『引きずり込まれた奴の足首には、女の髪の毛がびっしり絡みついていた』


 陳腐な噂話。だが、その内容は、僕がこれまで調べてきた症例報告と、不気味なまでに一致していた。僕は、すぐに地図アプリケーションと国土地理院のデータベースで、その浜の地理的特徴を分析する。

 答えは、すぐに出た。


 その浜は、町の生活排水が流れ込む、小さな川の河口に位置していた。そして、潮の流れが複雑で、海水と川の水が混じり合い、長時間滞留しやすい地形――いわゆる汽水域を形成している。

 美泥渕や古井戸のような閉鎖水域とは違う。だが、陸からの有機物が常に供給され、海水と淡水が混じり合うことで、独自の生態系が生まれる場所だ。富栄養化が進み、プランクトンが異常発生しやすい。

 これは、開放的でありながら、常に新鮮な栄養が供給され続ける、巨大な培養槽なのではないか?


 僕は、ここが、水に纏わる霊のまた別の生態を観測できる、極めて重要なサンプルであると結論づけた。




 行くしかない。

 高木を誘うわけにはいかない。あの井戸の一件で、彼はもう二度と僕の調査には付き合わないだろう。今回は、僕一人だ。


「もしもし、蒼? 僕だ」

「うん、どうしたの?」

「悪いんだけど、明日から一日か二日、少し留守にする。ゼミの調査で、地方に行くことになった」

「……調査って、また、あの井戸みたいな?」

 彼女の声は、努めて平静を装っていた。でも、ほんの少し震えていた。

「大丈夫。ただの文献調査だよ。それより、ちゃんとご飯食べてるか? 水ばっかり飲んでちゃダメだぞ」

「……うん。気をつけてね」

 彼女の、その一言が、僕の胸を締め付けた。


 電話を切った後、僕は研究室で、初めての武器(せいすい)の精製に取り掛かった。イオン交換膜を新品に交換し、蒸留器を念入りに洗浄する。そして、数時間かけて、僕は純度99.999...%の超純水を作り上げた。その、あまりにも無機質で、生命の気配を一切感じさせない液体を、僕は実験用の500mlスプレーボトルに、祈るような気持ちで満たした。

 これが聖水か、あるいはただの水か。その答えは、間もなく明らかになる。




 ローカル線に揺られ、辿り着いた△△港は、潮の香りが漂う、寂れた漁港の町だった。日中の陽射しは、夏の終わりを告げるように柔らかく、防波堤では数人の老人がのんびりと釣り糸を垂れている。この町のどこに、人を死に誘うような怪異が潜んでいるというのか。

 僕は、港の近くの小さな食堂で遅い昼食をとりながら、店主の老人に、それとなく浜のことを尋ねてみた。

「あんちゃん、観光か?」

「ええ、まあ。あの、西浦海岸って、きれいな場所なんですか?」

 僕の言葉に、店主は一瞬、箸を止め、じろりと僕の顔を見た。

「……やめとけ。昼間ならともかく、夜は、あの浜には行くなよ。昔から、呼ばわるからな」

 それだけ言うと、店主はもう口を開かなかった。


 夕暮れ時、僕は問題の浜に立っていた。

 砂浜、というよりは、乾いた小石と、腐った藻のようなヘドロが交じり合い、足元からぬるい臭気が立ち上っていた。沖へと続く、緩やかな遠浅の海岸。そして、僕の立つ場所のすぐ横では、濁った川の水が、だらだらと海へと流れ込んでいる。海水と川の水が混じり合う境界線――潮目が、不気味な模様を描いて揺れていた。


 ざあ、ざあ、と、寄せては返す波の音だけが響く。太陽が水平線の向こうに完全に姿を消すと、浜は急速に闇に支配されていった。

 潮が、満ちてくる。

 僕は、持ってきた機材をセットした。三脚に固定した高感度マイクを、波打ち際にできるだけ近づける。

 そして、ヘッドフォンを装着し、録音を開始した。


 闇。波音。風の音。それだけのはずだった。


 だが、ノイズの向こう側から、何かが聞こえ始めた。

 最初は、気のせいかと思った。波音の反響か、あるいは風が作り出す空耳か。

 だが、それは、徐々に、しかし確実に、輪郭を帯びてくる。

 女とも子供ともつかない、息を吐くような声が、波音の縫い目に忍び込んでくる。耳を澄まさなければ聞き逃すほど小さく、それでも、確かに――僕の名前を呼んでいた。


 波音の合間を縫って、それは、確かに、僕の耳に届いていた。


「……おいで……」

「……こっち……へ……」


 僕は、ヘッドフォンを強く押さえた。心臓が、井戸の時とはまた違う、冷たい恐怖に鷲掴みにされる。

 声は、沖の暗闇から聞こえてくる。徐々に、こちらへとにじり寄ってくる気配すら感じる。


 ――試すしかない。


 僕は震える手で、バックパックのサイドポケットに差しておいたスプレーボトルを引き抜いた。そして、自分に向けてノズルを向け、そのトリガーを引く。さらに、暗い海の闇との境界線に、祈るような気持ちで霧を噴射する。


 シュッ、という微かな音が連続的に響き、超純水の粒子が撒き散らされる。


 その、一瞬。

 耳元で囁いていた僕の名前を呼ぶ声が、ぴたりと止んだ、気がした。


 だが、安堵する間もなく、声は再び聞こえ始める。今度は、先ほどよりもどこか苛立ちを帯びた響きで。


「……おいで……なぜ……こない……」


 やはり、ただの気のせいだったのか? それとも、効果はあったが、広大な海の闇の前では、あまりに無力だったということか?

 僕は、声のする方――どこまでも続く、暗い海の闇を、ただ、絶望的な気持ちで見つめることしかできなかった。

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