底無様(下)
この場合、怪異は何を嫌がるのでしょうか?
皆さんも考えてみてくださいね。
高木の制止の声が、やけに遠く聞こえた。
僕の意識は、目の前にある古びた木の蓋に、その向こう側に広がるであろう未知の暗闇に、完全に囚われていた。
「大丈夫だ。科学的な調査だから」
僕は、高木に、いや、恐怖に竦み上がろうとする自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「ただ、水質と内部の音を調べるだけだ。すぐに終わる」
「……本気かよ、お前」
呆れたような、それでいて僅かに心配の色を滲ませた高木の声。僕はそれに答えず、革のグローブをはめた両手に力を込めた。高木も、僕の覚悟を察したのか、ため息を一つついて、反対側から蓋に手をかけた。
「……せーの!」
僕の合図で、二人分の力が、固く閉ざされた蓋にかかる。ぎ、と木材が軋む鈍い音を立て、蓋が僅かにずれた。
その瞬間だった。隙間から、まるで圧縮されていた空気が解放されるかのように、濃密な冷気が噴き出してきたのだ。それは、単なる物理的な冷たさではない。カビと苔、そして凝縮された腐敗臭が混じり合った、生命を拒絶するような冷たい悪臭。僕も高木も、思わず顔をしかめて後ずさる。
「うわっ、くっせ……!」
「……覚悟はしていたが、これは酷いな」
僕たちは、意を決して、一気に蓋を横へと引きずり下ろした。ごとり、と重い音を立てて、蓋が地面に落ちる。そして、井戸の暗黒が、その口を完全に開いた。
高照度LEDライトを点灯し、その光で内部を照らす。光の円が、苔に覆われた湿った石壁を滑り落ちていく。井戸は、思ったよりも深いようだった。十メートル、あるいはそれ以上か。光がようやく水面に届いた時、僕は息を呑んだ。
そこに広がるのは、ただの黒ではなかった。光をまったく吸い込むように、暗闇そのものが水面を覆っている。まるで深い闇に飲み込まれたかのように、無機質で無慈悲な色が広がり、微かに油膜が浮かんでいる。静まり返ったその水面は、まるで意志を持って、底に広がる何かを隠しているかのようだった。
僕は、恐怖を理性で押さえつけながら、バックパックから調査機材を取り出した。
「おい、何すんだよ」
「言っただろ、調査だよ」
僕はまず、高感度ステレオマイクの先に長いケーブルを繋ぎ、ゆっくりと井戸の中へ降ろしていく。そして、ノイズキャンセリング機能のついたヘッドフォンを装着した。
……しん、としている。いや、違う。微かに、だが、何かの音が聞こえる。ぷつ……ぷつ……。水底の泥から、メタンガスの気泡が弾ける音だろうか。いや、もっと粘り気のある、何か肉感的な音だ。まるで、巨大な生き物が、ゆっくりと呼吸をしているような。
「……次に、水を採取する」
僕はヘッドフォンを外し、今度はロープに結びつけた小さなバケツを井戸へと降ろした。ちゃぷん、と小さな音を立てて、バケツが黒い水面を破る。ゆっくりと引き上げたバケツの中には、あの黒い液体がなみなみと満たされていた。
それは、もはや水ではなかった。生物の死骸が溶け込んだ、流動する泥とでも言うべき液体だった。腐敗臭が、先ほどよりも強く鼻をつく。僕はその液体を、滅菌済みのバイアル瓶に慎重に移し入れた。水質調査キットでの一次検査は、後だ。今は、記録を続ける。
異変は、その直後に起こった。
再びマイクを降ろし、ヘッドフォンをつけた僕の耳に、先ほどとは明らかに違う音が飛び込んできたのだ。ざあ……ざあ……。誰かが、水中で、何かを掻き混ぜているような音。そして、その音に混じって、低い、人の呻き声のようなノイズが聞こえ始めた。
「……高木、何か聞こえるか?」
「はあ? 何も聞こえねえよ。気味悪い静けさだけだ」
僕にしか聞こえていないのか? いや、このマイクは、人間の可聴域を超えた音まで拾っているはずだ。ライトで照らされた水面が、静かに波紋を描き始めた。風はない。振動もない。波紋は、井戸の中心から、ゆっくりと外側へ広がっていく。
「おい……なんか、水面が……」
高木も、その異常に気づいたらしい。波紋は、次第に大きくなっていく。そして、水面の中央が、僅かに盛り上がっているように見えた。まるで、水面下から、巨大な何かが浮上してきているかのように。 僕の心臓が、警鐘を乱れ打つ。
逃げろ!
本能が、最大級のボリュームで叫んでいる。だが、僕の身体は、恐怖と好奇心に縛り付けられ、動くことができなかった。
水中の、ライトの光が拡散して届かない闇が、蠢いた。
そして、黒い水の中から、ぶわり、と。
黒く、長い髪が、まるで生き物のようにゆらめきながら水面に浮かび上がった。その動きは、ただの流れとは明らかに違う。髪が、水面の下から意志を持って這い上がるように、無音で波打ちながら広がっていく。
高木の口からは、声にならないほどの呻きが漏れ、目を見開いて固まったかと思うと、全身が震えだした。「ひっ…!」という短い叫びと共に、足元が崩れ、地面に倒れ込んだ。
髪の毛は、まるで意思を持っているかのように、水中で揺らめいている。その、おぞましい光景に、僕たちの視線は釘付けになった。
だが、本当の恐怖は、その次にやってきた。
揺らめく髪の中心から、ぬるり、と。
水面を突き破り、ぬるりと白く、ふやけた手が現れた。
それはただ浮かび上がるのではなく、まるで何かに引き寄せられるかのように水面を裂きながら、こちらに伸びてきた。
無数の手が、虚空を掴むように、ひとつ、またひとつと現れ、蠢く。数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの白い手が、まるで助けを求めるかのように、あるいは、僕たちを暗闇へと引きずり込もうとするかのように、虚空を掴み、ゆっくりと蠢いている。
ああ、と僕は腑に落ちた。
これが、彼らだ。 思考が、そこで完全に停止した。
「うわあああああっ!」
高木の絶叫で、僕は我に返った。彼が、僕の腕を掴み、馬鹿力で後ろへ引っ張る。僕は、われるようにして尻餅をつき、そのまま引きずられるようにして、その場から逃げ出した。マイクも、ライトも、井戸のそばに置き去りにして。僕たちは、もつれる足で雑草の庭を駆け抜け、車へと転がり込んだ。
帰り道、僕たちは一言も口を利かなかった。いや、利けなかった。
研究室に戻った僕は、震える手で、かろうじて持ち帰ったバイアル瓶を分析台に置いた。採取したサンプルは、TOC(全有機炭素)の値が、通常の河川水の数百倍というとんでもない数値を示した。もはや、汚水というより、薄い泥そのものだ。
僕は、この現象が自分の仮説を裏付けるものであると同時に、自分の命を容易に奪い去る、まぎれもない脅威であることを、骨身に染みて理解した。
ただ調べているだけでは、ダメだ。
蒼も、そして僕自身も、このままではただ震えることしかできない。
蒼を救うには、そして僕が生き残るには、何らかの対抗策――“武器”が必要だ。
彼らが好むのは、有機物に満ちた、腐敗の香り漂う生命の死骸のスープ。
ならば……彼らが最も嫌うのは、何だろう?
思考がかき乱される中で、僕の心の中で一条の光が灯った。
それは、恐ろしいほどに純粋な、ひとつの答えだった。