水哀霊(下)
夜が来て、闇が忍び寄る。昏い囁きがあたりに充ちる。
僕のヘッドライトが切り取る、一本の光の道。その先で、首無し地蔵が、静かに僕を待っていた。
一歩、また一歩と、ぬかるむ岸辺を進む。足元では、穢れた泥が、まるで生きた心地を思い出したかのように、僕のブーツに纏わりついてくる。
僕は、手に提げた噴霧器のノズルを足元に向けた。そして、引き金を引く。
シュウウウウ、と圧縮された空気が純水の霧を吐き出す。
霧が、黒い泥に触れた瞬間、白い湯気のようなものが立ち上った。
驚くべきことに、泥は粘性を失い、ただの汚らしい水となって流れ去った。
効いている。
ようやく確信した僕は、自分の周りに円を描くようにして聖水を撒き、即席の結界を張った。
これで、少なくとも、背後から襲われる危険は減ったはずだ。
その時だった。
地蔵の足元の泥が、ごぽり、と大きく泡立った。
そして、これまで静寂を保っていた渕の水面が、一斉に蠢き始める。
水面から、ぬるり、ぬるりと、白い手が現れる。数十、数百。井戸の時とは比較にならないほどの数が、僕に向かって、おいで、おいでと、ゆっくりと手招きをしていた。
同時に、頭の中に、直接、声が流れ込んでくる。
『……いたい……』
『……さむい……』
『……こっちへ、きて……』
『……いっしょに……なろう……』
男とも、女とも、老人とも、子供ともつかない、無数の声。それは、呼波浜で聞いた、か細い誘いなどではない。凝縮された、巨大な感情の奔流。憎悪や怨嗟ではない。ただ、ひたすらに、寂しい、哀しい、という、どうしようもない情念の塊。
その声に混じって、僕は、聞いてはならない声を、聞いてしまった。
『……たすけて……』
蒼の声だ。
「蒼っ!」
僕は、思わず叫んでいた。その声に引き寄せられるように、首無し地蔵へと視線を向ける。
そこが、盛り上がっていた。
地蔵を、まるで玉座のようにして。泥と、水草と、そして、白くふやけた人間の四肢のようなものが、さながら蛇のように絡み合い、悍ましくも美しい一つの巨大な塊を形成しながら、ゆっくりと、その姿を現しつつあった。
あれが、恐らくは核。この美泥渕の、すべての元凶。
僕は、噴霧器を構え、その「塊」へと近づこうとした。だが、足が、動かない。泥に囚われたからではない。頭に流れ込んでくる、無数の哀しみに、僕自身の精神が、蝕まれ始めているのだ。
寒い。寂しい。苦しい。もう、どうでもいい。ここへ来て、この水と一つになれば、楽になれる。そんな、甘い毒のような囁きが、僕の思考を麻痺させていく。
溺れたように薄れゆく意識の中、僕は、蒼の顔を思い浮かべた。
初めて会った日の笑顔。一緒に馬鹿なことをして笑った記憶。
そして、苦しみながらも、僕を信じて、あの超純水を飲んでくれた、彼女の顔。
――違う。
僕は、こんな場所で、終わるわけにはいかない。
僕は、歯を食いしばり、精神を蝕む声に抵抗した。そして、その正体を、冷静に、科学者として、分析しようと試みた。
あれは長い年月をかけて、この渕に溜まり、凝縮された、行き場のない哀しみそのものだ。
事故で死んだ者、身を投げた者、あるいは、人知れず捨てられた者。その無数の魂の、悲しみの澱。
それらが残した有機物が水を媒体にして、ただ、自分と同じ存在――孤独と哀しみを共有する仲間を増やそうとしているだけの、巨大な群体。
即ち、穢れた水に棲むことしかできない、悲しみの残滓。
たまたま水が合ったがために、現世に取り残された淀み。
僕は、その存在に、名前を与え、定義した。観測対象として、僕の思考の俎上に載せた。
”水哀霊”、それが彼らに相応しい名前だ。
僕の研究者としての自我が、鈍った脳に力を与える。
刹那、僕を縛り付けていた精神的な圧力が、僅かに弱まる。
今だ。
僕は、背負っていた噴霧器のノズルを掴み、両手に構えた。
そして、ありったけの超純水を、その塊の中心――無数の手が蠢き、首無し地蔵が埋まる、心臓部へと吹き付けた。
絶叫は、なかった。ただ、絶対的な無音が、再び、世界を支配した。
僕が放った純水の濃霧が、塊に触れた瞬間、すべての動きが、ぴたり、と止まった。
蠢いていた手も、泡立っていた水面も、僕の頭に響いていた声も。
すべてが、フリーズする。
そして、研究室の時と同じ、だが、比較にならないほど大規模な崩壊が始まった。
塊は、白い煙を上げながら、その形を保てずに、内側から、はらはらと、黒い粒子となって崩れていく。渕全体が、まるで沸騰したかのように激しく泡立ち、水底から溜まっていたであろうガスが、一斉に噴き出した。
腐敗臭が、極限まで高まる。だが、それも、一瞬のことだった。
塊が、完全にその姿を消し去った瞬間。
泡は、静まり。
匂いは、消え。
僕の頭の中の声も、嘘のように、聞こえなくなっていた。
後に残されたのは、ただの、汚れた沼。
そして、その水面に映る、静かな月だけだった。
あの、まとわりつくような圧迫感は、もうどこにもない。
僕は、膝まで泥水に浸かったまま、その場に崩れ落ちた。
終わった。
終わったんだ。
僕は、震える手で、防水ケースに入れていたスマートフォンを取り出した。画面には、蒼と二人で笑っている写真。
無事なのか。助かったのか。
確かめる術は、まだ、ない。
「……蒼」
夜の静寂に、僕の呟きだけが、小さく、吸い込まれていった。