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 今でも時折、セレーネの日記を読み返す。

 あんなに読むのが辛かったセレーネの日記。だが今は、とても穏やかな気持ちで文字を追うことができるのだ。


 もちろん、セレーネの闘病の苦しみを知っているから、当時を思い出せば胸が苦しくなる。でもそういうことではなくて、セレーネに対する罪悪感で身を苛まれるだとか、そういうものが消えていたのだ。


 不思議だと思う。あんなに苦しかったのに。日記の文字をひたすら追い、最後のページに辿り着く。


『幸せになって』


 セレーネからの最期の一文。

 けれど私はまだ、この言葉の真の意味を見出せずにいた。





 春が来た。

 新芽が次々に顔を出し、庭の色がぱっと明るく色付く。ラルフが意気揚々と土をほぐし、種を植え、植物を剪定している。鳥達が新芽を啄みに飛来し、冬の静けさが嘘だったかのように、庭は活気を取り戻していた。


「イヴァン様、お花が咲いたんです」


 ステラに呼ばれ庭に出る。色とりどりの花が所狭しと並ぶなか、ステラがとある一点を指差した。


「覚えてらっしゃいますか?去年の秋に、花の種を選んでもらったのを。その種が芽吹き、花を咲かせたんです」


 ステラが指差す先には黄色い花が咲いていた。名前はわからない。セレーネのために、と庭を綺麗にさせていたのに、肝心の花にはあまり興味がなかったんだなと初めて気付いた。


「……綺麗だな」

「私には可愛く見えます」

「そうか」


 嬉しそうに花を見つめるステラに目が奪われてしまう。長い指が、花びらをそっと撫でている。ねぇ、イヴァン様。名前を呼びながらステラがこちらを向いた。視線が絡む。あぁ、そうだな、君の言う通り、花も、君も、


「……可愛いな」


 ——そう思わず口にして。

 

「いっ……イヴァン様っ……!?」


 ステラが真っ赤になったのを見て初めて、自分の失言を理解したのだ。





 セレーネの墓にに足を運ぶ。ラルフにお願いして、春に一番綺麗に咲く花々ばかりを揃えた花束を、そっと墓にお供えする。


「……綺麗だろう、セレーネ」


 返事はない。


「……思えば、君は、どんな花が好きだったんだろな」


 セレーネとの結婚はたったの一年だった。その一年も、ふいの流行り病やセレーネ自身の闘病で、夫婦らしいことはなにもできなかった。

 目を瞑る。昔はセレーネの声も簡単に思い出せていたのに、今ではもう思い出すことができない。月日というのは本当に残酷で、セレーネが死んで、だいぶ遠くに来てしまったんだと実感した。


「……セレーネ、君は、私の幸せはなんだと思う?」


 返事はない。


「……君のいない人生など考えられなかった。君がいなければ幸せな人生などあり得ないと、そう思っていた」


 返事はない。

 墓石を撫でる。相変わらず墓石は冷たかった。墓石に刻まれたセレーネの名前をそっとなぞりながら、幸せになって、この言葉の意味をずっと考えていた。





 あくる日。

 政務が一段落したので休憩しようと廊下を歩いていると、ステラの自室から黄色い悲鳴が聞こえた。

 冬もこんなことがあったな、とすぐに思い返す。今度は夏用のドレスでも見繕っているのだろうか、扉をノックしながら名乗りをあげると、今度はあの時より慌てたような声が返ってきた。


「だだだ旦那様!申し訳ありません!今奥様はお着替え中でして!少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか!」


 それは扉を開けるわけにもいかない。特に時間にも追われていなかったのでその場で待っていると、しばらくして、部屋の扉がそっと開いた。


「だだだだ旦那様!まだいらしていたのですか!」

「少々待てと言ったのはそっちだろう」

「ももも申し訳ありません!てっきりもうお暇されていると思いまして!」

「謝罪はいい。それで、着替えは終わったのか」

「ええ、あぁ、はい、あの、ええと、奥様!旦那様をお通ししてもよろしいでしょうか!」

  

 少し間があって、怯える侍女に部屋に通された。すぐ視界に入ってきたのは、


「ちょうどよかったです。イヴァン様が選んでくださったドレスを試着していたんです」


 あの冬。私が選んだデザインのドレスを見にまとうステラの姿だった。


「どうですか?少し大人っぽいかとも思いましたが……」

「……」

「……あの、イヴァン様?」

「……」

「……似合っていませんか?」


 ステラの言うように、ダークグリーンのドレスは背中が大きく開き、ステラには少し背伸びしたデザインに見えた。しかし下品さはなく、むしろ、ステラの中に隠された女性としての魅力を引き出しているように思えた。


「……あの……イヴァン様……?」


 黙り込んでしまった私に、ステラが不安そうな顔を浮かべる。不安にさせたいわけではない。どうにか、言葉を探し出す。


「……このドレス、似合っていませんか?」

「……違う」

「では、」

「……違う。その、ステラ、……綺麗だ」


 一拍置いて、黄色い悲鳴が上がった。侍女達の悲鳴だ。


「……似合っている。綺麗だ。……いや、君ならどんなデザインも似合うと思っていたが……」

「わっ、……わかりましたからっ……!ありがとうございます……っ……」


 耳まで赤くして、ステラが頭を下げている。その様子を見て、胸がまた大きく鳴った。動悸が激しくなる。女性を見てこんなに胸が高鳴ったのは、——そうだ、セレーネに一目惚れした、あのとき以来かもしれない。

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