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 幸せになって。


 その一文を読んで、胸が、どうしようもなく締め付けられる思いだった。


 幸せになって、幸せになって?私が?君を幸せにできなかった私が、君を差し置いて幸せに?


 苦しくて息が出来なかった。誰かに背中をさすってほしかった。隣にいてほしかった。だから、だから、




「——イヴァン様?」

「……すまない、ステラ、……少し、いいか」


 ずるいとは思った。卑怯だとも。けれども、今の自分が寄りかかれる人間は、ステラしかいなかった。

 突然の訪問だというのに、ステラはひとつも機嫌を損ねることなく部屋に通してくれた。甘い匂いがした。ステラがいつもまとっている匂いだった。それで、どうしようもなく安堵してしまう。


「日記をお読みになられたんですね?」


 先程とは逆で、私は椅子に、ステラはベッドに座っている。ステラに問われ、私はゆっくり頷いた。


「私の言った通り、恨み辛みなどなかったでしょう?」

「……あぁ」

「お庭のこと、日記にたくさん出てきていましたね」

「……そうだな」


 日記の文を思い返すたび、胸がつっかえそうになる。どうにか拳を握りしめて、握り込んだ拳の中で爪を立てて、感情が溢れるのを抑え込む。


「セレーネ様は、お庭のお花を楽しんでおられましたね」


 そうだな、そう返したかったのに。


「……イヴァン様のこと、とても愛しておられたのですね」


 そうだな、と返答したいのに、


「……、……イヴァン様の、お幸せを願っておりましたね」


 ステラのその言葉を最後に、堰をきったように涙が溢れた。

 

 ——セレーネ、セレーネ。思えばこの5年、彼女に対する思いは、愛というより贖罪だったように思う。私は彼女を幸せにできなかった。だから私も幸せになるべきでない、幸福を感じるべきではない、一生涯、彼女に償い続けなければいけない、と。もちろんセレーネのことは愛しているし、だから墓参りだって欠かなかった。けれど心のどこかで、セレーネを幸せに出来なかった自分が、セレーネを差し置いて幸せになっていいのか、そんな問いが、ずっとずっと、心の中を渦巻いていたのだ。


 幸せになってはいけない。けれど、セレーネは、生涯最期に、私の幸せを望んだ。セレーネがいなければ幸せになれるはずなんてないのに。

 でも、けれども私は、まだ生きている。セレーネとはもう、違う時間を生きてしまっている。領地の状況は日々変わるし、両親も、自分も、あの頃よりずっと老け込んだ。あのとき咲かなかった月下美人の花は咲き乱れている。自分の目の前には、セレーネではない、別の女性がいる。


「……っ……」


 みっともないと思いながら、涙も嗚咽も止まらなかった。そんな私に、ステラは黙って付き合ってくれていた。





 季節は緩やかに過ぎて行く。


 夏の暑さが過ぎ、次第に秋が顔を覗かせる。この蕾が今季最後ですよ、とラルフが教えてくれたので、ステラと一緒に月下美人も見に行った。


 秋の花々が見たいわ、と夫人達からの要望もあり、ティーパーティーも変わらず開催されていた。パーティーをきっかけに、これまで親交のなかった貴族とも交流が生まれ、領地経営はますます盤石になっていた。



「来年の春に向けてお花を植えたいんです」

「好きにしろ」

「そう仰らず。イヴァン様もお花を選んでくれませんか」

「いや私は……」

「私とラルフだけで好みが偏ってしまうんですよ」


 ステラとの関係も、少し変化が見られるようになった。

 寝室を共にしないのは変わらないが、雑談を交えることが目に見えて増えた。今もステラに連れられ、花の種を選んでいるところだ。


「春は本当にいろんなお花が咲くんです。何色のお花が良いですか?」

「何色でも良いだろう」

「そう仰らず」

「…………では、黄色で」

「まぁ!」

「……まぁ?」

「私も同じ色を選ぼうと思っていたんです」

「…………ただの偶然だ」


 ころころと笑うステラに思わず目が奪われる。このところ、気付けばステラの方を見ていることが増えた。たまにからかってやると膨れる頬も、今みたいに笑う顔も。私の目を引いてやまなかった。


 それと同時に、セレーネに対する罪悪感もむくむくと湧く、……はず、だった。ステラに目を引かれる。こんなもの浮気と同じだ。なのに、セレーネのことを思い出さなかったのだ。セレーネ、すまない、薄情な男で申し訳ない、何度も何度も心の中で詫びて——唐突に思い出す。週に一度、必ず行っていた墓参りをしていないことを。





 ラルフに頼んで庭の花をかき集めた。

 どうにか花束を作って10日ぶりにセレーネの墓に向かう。あろうことか、先客が既にいた。


 ステラだった。思わず木の影に隠れる。

 なぜステラがいるのだろう。様子を伺っていると、墓の上に散った葉を取り払い、周辺の草を抜いていた。しばらくそうして墓の周りを綺麗にして、ステラが墓に向き直った。

 祈るような仕草を見せる。言葉は発さない。その様子を、私はただ見ることしかできなかった。


 祈りを終えたらしいステラがくるりと踵を返す。木の影が成人男性を隠し切れるわけもなく、振り返ったステラと、目が合ってしまった。





「いつから墓に行っていたんだ」

「結婚してすぐの頃からです」


 庭の東屋で、茶をしばきながらステラが答えた。


「なぜ私に言わなかった」

「そうやって怒ると思ったからです」

「怒っていない」

「お顔が怒っていますよ?」

「……違う」


 しかしステラに指摘された通り、自分でも形容し難い妙な怒りが湧いていた。

 後妻が先妻を敬う。本来褒められるべきことだろう。だがどうしてだが、怒りが顔を覗かせていたのだ。


「そもそもなぜセレーネの墓参りなどしていたんだ。君との接点はないだろう」

「仰る通りです」

「ではなぜ」

「イヴァン様がセレーネ様のことを愛し続け、足繁くお墓に通っていらっしゃることは早い段階で耳にしていました。……イヴァン様の妻として、イヴァン様が大切にされているものは、私も同じように大切にすべきだと思ったからです」


 まっすぐにこちらを見据えるステラの言葉に嘘は感じられなかった。だからだろうか、膨らんでいた妙な怒りが、萎んでいくような気がした。


「イヴァン様が嫌だと仰るならもう行くことはしませんが……」

「……いや、今後も好きにしてくれ。…………セレーネは体が弱かった、だから、君のような友はいなかったと聞いている」

「……」

「君が行けばきっと喜んでいるはずだ」


 ……本当に?そうだろうか?セレーネは、後妻が墓参りくるのを望んでいるだろうか?


 けれどそれを確かめる術はもうなかった。セレーネは、もう、この世にはいないのだから。

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