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救いを求めるように、その翌日、セレーネの墓に足を運んだ。
花は持ってきていない。もしかして、もしかしてセレーネは、花なんか欲しくないのではと思ったからだ。見たくないと、花なんか嫌だと、そう、思っているかもと考えたからだ。
「……セレーネ……」
墓石に話しかけたところで返事はない。謝罪したところで返事はない。セレーネは、死んでいるのだ。いくら話しかけても、謝っても、それは自己満足にしかならない。苦しかった。セレーネに答えてほしかった。
墓の前にいることも辛くなって、ふらふらとその場を後にする。暑い。太陽の光が、身を苛むように体を焼く。視界が滲む中どうにか歩いていると、金色の髪が、視界の端で揺れた。
「イヴァン様?」
振り向く。ステラがそこに居た。私の顔を見るなり、なぜかステラが顔を真っ青にする。
「イヴァン様……!?顔色がよくありません!」
こちらに!とステラに腕を引かれる。抵抗する気も起きずに、ただ黙って、ステラの後を追った。
*
日陰のある東屋に私を座らせたかと思うと、ステラはすぐにどこかへ駆けて行った。
太陽の光が遮られたおかげで、煮えた頭が次第に落ち着きを取り戻して行く。水瓶を抱えたステラが戻る頃には、すっかり正気を取り戻していた。
「イヴァン様!お水です!早くお飲みになってください!」
「……面倒をかけたな、いただくよ」
正気に戻ったとはいえ、冷たい水は素直に嬉しかった。喉を通る水がありがたくて、思考ごと冷やしてくれるようだった。
「イヴァン様、どうされたのです。今は政務のお時間ではありせんか」
私の対面に腰を下ろしたステラが、心配そうにそう聞いてきた。君こそ庭で何をしていたんだ、と思いはしたが、聞く元気は残っていなかった。
「……セレーネの墓に詫びに行っていた」
ステラの表情が固まる。
「……昨日、君と花を見て思い出したんだ。セレーネは、私が植えるよう命じた花をよく思っていなかった。疎ましく思っていた、だから、それを詫びに」
誰かにこのことを話すのは初めてだった。誰に話すこともなく、だから、日記に叫ぶように書き記していた。
「……、……もっとセレーネの気持ちに寄り添えばよかったな、と、そう、思って……」
知らず項垂れていた。
肘をテーブルにつき、組んだ両手で頭を支えるように項垂れてしまう。顔を上げるのが億劫だった。
そうしてどれぐらい時間が経ったのだろう。ステラはなにも言わず、ずっとその場にいてくれた。あぁそろそろ、政務に戻らなければな、と顔をあげようとして、
「……でも、私がセレーネ様だったなら、イヴァン様のお心遣い、きっと嬉しく思っていました」
「——、——君になにがわかる!」
思わず叫んだ。項垂れていた顔を上げ、叫ぶと、ステラの瞳は驚愕で見開かれていた。その顔を見て、我に返る。ステラに叫んだところでなにも変わらないのに、
「……、すまない、取り乱してしまった」
「いえ、私も出過ぎたことを言いました。ですがイヴァン様、セレーネ様がお庭のお花を疎ましく思っていたのはどこで知ったのですか」
「日記だ。セレーネが生前つけていた日記があるんだ。それに記されていたんだよ」
「それで……」
「全部は読めていないがな。きっと他のページも、私に対する恨み辛みで溢れているだろう」
私の言葉を聞いたステラが、考え込むように眉根に皺を寄せた。こんなに真剣なステラの顔を見るのは初めてな気がする。
「……よろしければその日記帳、私に読ませてくださいませんか」
*
なぜステラに日記を読ませる必要がある、と思いはしたのだ。
けれども、私はもう、あれ以上セレーネの日記を読む自信はなかった。読めないくせに、けれど日記の中身は気になっていた。私への恨み辛みばかりかもしれなかったが、セレーネの痕跡を辿りたかったのだ。
その夜のこと。初めてステラを自室に招いた。
箱から日記を取り出してステラに渡す。ステラは黙って日記を受け取り、静かに、ページを捲り出した。
これ以上ないぐらい胸が早鐘を打っていた。吐き気も込み上げていたし、体が勝手に震えた。怖かった。5年、封じ込んでいたものが暴かれるのは、やはり怖くて堪らなかった。
思いの外、ステラは日記を早く読み終えた。椅子に座っている彼女は、日記帳を閉じ、ベッドに腰掛ける私に向き直る。
「イヴァン様。この日記はどこまでお読みになられましたか」
「……夜に咲く花もあるが、見るだけの体力は残っているだろうか、なぜ旦那様はお庭の花を整えたのだろうか、までだ」
「その続きはお読みになっていないと」
「そうだ」
「……日記の中身を知りたいですか?」
「……、……あぁ。どうせ恨みばかりだろうが、」
「いいえ」
私の言葉を遮るように、ステラがぴしゃりと言い放った。
「違います。確かに、旦那様が最後に読まれた日の日記には、旦那様への疑問が書かれていました。でも、…………セレーネ様のお言葉を、私の言葉でお伝えしても良いのですか?」
「……構わないよ、私は、自分で読む勇気がないからね」
「でしたら……」
ステラが手元の日記を捲る。
どくどくと心臓がうるさい。本当に、本当に聞いていいのか?
「……今日は、旦那様がお庭のお花のことを話してくれて嬉しかった。領地経営の話はわからないけれど、お花のことはわかるから嬉しい」
ページを捲る音がする、
「久しぶりに体を起こした。庭にはお花が沢山咲いていた。良い気分転換になった。旦那様が昨日お話ししていた花も、きっとあの中にあるのだろう」
ステラの指が、ページを捲る、
「庭にたくさん花が咲いたらしい。旦那様が教えてくれた」
紙の擦れる乾いた音がする、
「庭の花を摘んできてもらった。とても綺麗だ」
ページを捲る、
「旦那様と、お庭で、お花を見たかった」
また、ページを捲ろうとして、
「……私が話して良いのは、きっと、ここまでです」
ステラの指が止まった。
「……ステラ?」
「日記は全部読みました。けれど……イヴァン様への恨み辛みなどはありませんでした。それに、最後のページは、ご自分でお読みになられた方が良いかと」
ステラが日記を差し出した。その手が震えている。思わず彼女を見ると、青い目には涙が滲んでいた。
「私はこれでお暇いたします。イヴァン様、おやすみなさいませ」
私の言葉を待つことなく、ステラは部屋を後にした。
日記と共に部屋に残された私は、長いこと日記をただ見つめて——そっと、その表紙を捲った。
*
読めなかった日記の先。
ステラの言う通り、私に対する恨み辛みは一字としてなかった。日に日に崩れて行く文字、それと共に短くなっていく文章。起きるのも辛くなっていた頃だ、思い出して胸が苦しくなってしまう。
『旦那様と、お庭で、お花が見たかった』
ステラが最後に読んだ一文。次のページは、ステラから、ご自身で読まれた方が良いと言われたところ。ステラを疑うわけではないが、ここから先、本当に恨み辛みが書いてあるのかもしれない、覚悟を決めて、どうしようもなく震えて汗で湿る指で、ページを捲る。
ページを捲る。思わず目を瞑る。怖い、読むのが怖い、それでもどうにか薄目を開けて、しかし、飛び込んできたのは、たった一文だった。
『旦那様、どうか幸せになって』
崩れた文字だった。今までで一番、崩れた文字だった。これまでの日記で筆跡を知っているから、辛うじて読める。書くのに苦労したのか、紙の端もぐしゃぐしゃに寄れている。そんな崩れた文字で、ぐしゃぐしゃの紙に、たった一言、そう書かれていた。
以降、ページは白紙だった。幸せになって、それが、セレーネの最期の日記だった。