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 夜も更ける頃。

 人気のない東屋でじっとステラのことを待っていた。


 頬を撫でる風は生温い。風にのって昨夜と同じ香りがする。きっと月下美人はもう咲いているのだろう。やることもなく、ただ待っていると、慌てた様子のステラが小走りで姿を現した。


「イっ、イヴァン様っ……お待たせいたしました!」

「そんなに待っていない」


 花の芳香とは別の、甘い香りがした。それがステラからの香りだと気付くのにそう時間はかからなかった。

 暑いからだろう、ステラは薄着で、髪もうしろでひとつに纏めていた。うなじがやけに眩しくて——そこまで考えて、思考を遮るように目を瞑った。


「行こうか。もう咲いているはずだ」


 ステラに目を奪われてはいけない。だって私が愛するのはセレーネだけだから。他の女にうつつを抜かせば、セレーネが悲しんでしまうから。





 東屋から月下美人が咲く場所までそう距離はない。

 だから特に会話もなく、すぐにその場所に辿り着いた。ラルフの言うように、昨夜に比べてたくさんの花が咲き乱れている。真っ白な花が、亡霊のように暗闇に浮かんでいた。


「綺麗ですね」


 花を目にしたステラが笑いながら私に言う。そうだな、と曖昧に返事をして、ぼんやり花を眺めた。


「私、この屋敷に来るまで、夜に咲く花があるなんて知りませんでした」

「そうか」

「しかも一晩だけしか咲かないなんて。……イヴァン様、どうしてこの花をお植えになったのですか?」


 そんなの、ラルフに任せきりのはずで、………………いや、違う。違う、ステラに問われ、遠い記憶が鮮烈に蘇る。『夜に咲く花があるらしい』『とても素敵な花なのでしょうね』確かにセレーネとそう会話を交わしたのだ。そうだ、この花は、病に臥せり、いつ起きるとも知れないセレーネが、夜でも楽しめるように植えた花ではなかったか。


「……夜中に起きたセレーネが、せめて癒されるよう、植えさせたんだ」

「……そう、でしたか。では、セレーネ様ともこのお花を見たんですか?」

「……いや。結局、花が咲くようになる前に亡くなってしまったからな。けれどセレーネの自室から見えるようにと植えさせた覚えが……」


 と、そこまで話したところで違和感に気付く。

 セレーネの自室は現在の自分の自室。だが、自室から月下美人の花を見ることはできなかった。見えなかった。だから、ステラとラルフが密会しているのではないかと妙な勘違いを起こした。


「……イヴァン様?」

「……いや、なんでもない。ところで君は、この花を見るのは二度目なんだろう」

「まぁ、一体誰からお聞きになられたのですか?イヴァン様の仰るように、先日、ラルフや侍女たちとも見にきたんです」

「そうか」

「でも不思議ですね、」


 花を見つめていたステラが、私の方を向く。視線が絡み合って、初めて、自分がステラの方を見つめていたことに気が付いた。

 そしてそれはステラも同じことだったらしい。開きかけていた口が、そのままの形で止まる。まるで時間が止まったように、じっと、視線だけを合わせていた。


「……あの、…………綺麗な花、……ですよね」

「……そうだな」


 ようやくステラが絞り出すよう言葉を発したときには、ステラの頬は心なし紅潮していた。きっと、夏の暑さにあてられたのだろう。





 鍵付きの箱がある。

 大切なものだけを詰めた箱。両親からもらったプレゼントだとか、過去の日記だとか。そういった、人には見せたくない、大切なものだけを詰めた箱がある。


 普段は開けることのないその箱。ステラと別れて自室に戻るなり、いつぶりかに鍵を開けて、日記をふたつ、取り出した。


 ひとつは自分の日記。

 セレーネが生きていた頃から、亡くなって一年経つまでの間につけていたもの。


 もうひとつはセレーネの日記。

 ブラックウェルに嫁いでから、字を書く元気があったときまでつけられていたもの。



 まず自分の日記から目を通す。

 読み返すのは初めてのことだった。セレーネが亡くなって、それからしばらく記憶が曖昧で、だから自分でつけた日記でありながら、どこか他人のつけた日記を読んでいるようだった。


 日記には、セレーネを失った慟哭が切々としたためられていた。悲しみのあまり、セレーネの気配がする、セレーネの自室から出て来られなくなったこと。バルコニーに出て庭を眺めたこと。咲く花々すら、セレーネとのことを思い出し、辛くなること。それらの文を、ひとつひとつ、読んでいく。


 やがて乱雑だった文字が整っていく。どうにかセレーネの死に向き合い、領主の仕事に復帰した頃だろうか。それでも毎日のようにセレーネの名前は出てくる。ページを捲り、文を読み続ける。すると唐突に、『私は彼女を傷付けてしまった!』荒々しく書かれ、ぐしゃぐしゃになったページが出てきた。ページが破れていないのが不思議なぐらいだ。


 ——そこで、私は、思い出す。この慟哭は、セレーネの日記を読んで、叫んだことだったのを。


 震える手でセレーネの日記に手を伸ばす。セレーネの日記を読むのは、これで二度目だった。

 

 過去のことを思い返しながらぱらぱらと日記を捲る。整っていた字が次第に崩れ、日記の文が短くなっていく頃。とある日。短いだけだった文章が、突然、長くなった日があった。


『旦那様は私のために庭を綺麗にしてくれているが、眠りっぱなしの私は、柵の隙間から花を見ることしかできない。夜に咲く花もあるらしいが、果たして見るだけの体力は残っているのだろうか。お花は綺麗だけれど、庭を見るたびに、体の弱い自分を恨めしく思ってしまう。なぜ旦那様はお庭を綺麗にしたのだろうか、お庭を見るたびに苦しくなってしまう——』


「……っ……!」


 そこまで読んで、勢いよく日記帳を閉じた。

 そうだ、そうだった、セレーネは、庭の花を見るたびに心苦しく思っていた。そうだった、遺品整理をしながら日記を読んで、傷ついた彼女の心を知った。彼女の心に寄り添うことができなかった自分が憎くて憎くてたまらなくて、セレーネのためだと勝手な思い込みで彼女を傷付けた自分が許せなかったのだ。



 己の中に封じていた記憶がじわりじわりと蘇る。

 

 夜に咲く花はたくさんある。だが月下美人が、一番大きく育ち、一番大きな花を咲かせるのだ。だから、きっとセレーネも楽しんで見てくれるだろうと勝手に思い込み、セレーネの自室からよく見える位置に植えさせたのだ。


 だがセレーネが死んで、日記を読んで、それが全て間違いだったと知ることになる。勝手だとわかっていた、けれど、黒黒と育った月下美人が私を責めているような気がして、別の場所に植え替えるようラルフに命じたのだ。


 そうだ、だから、だから、月下美人は部屋から見えないのだ。見えなくなるように、私が、命じたのだ。


 今の今まで忘れていた。精神が壊れないよう、頭が忘れさせていたのかもしれない。苦しかった。苦しくてたまらなかった。セレーネを傷つけた花。なのに、その花を、別の女性と見たことも。美しい花だと思ったことも。セレーネに対する罪悪感がどっと胸に押し寄せる。セレーネに顔向けできなくて、苦しくてたまらなかった。

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