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セレーネに対する罪悪感からか、その夜は上手く寝付けずにいた。
セレーネに悪いことをしてしまった。そう心では思うのに、目を瞑ると、なぜか執務室での出来事が、深く傷付いたステラの顔が蘇る。なぜ、どうして。どうしてステラの顔が浮かぶのだろう。それがより一層セレーネへの罪悪感を育み、余計眠れずにいたのだ。
夜風にでも当たるかとバルコニーに出る。夏だからだろう、風すら生ぬるくて、あまり良い気分転換にはならない。ぼんやりとただ遠くを眺めていると、庭に人影があった。
目を凝らす。人影は庭師のラルフだった。こんな夜中になにをしているのだろう。またステラとの密会だろうか。
放っておいても良かったが、今日に限ってそれはできなかった。ステラと会うつもりであるならば、屋敷の規律を乱すなと詰め寄ろうと思った。ステラにも、伯爵夫人としての矜持が足りないとなじるつもりで、私は、夜の庭に足を向けた。
*
「こんな夜中になにをしている」
「だっ、旦那様……!?」
庭に出るまでの間にステラの姿を探したが、それらしき人影はなかった。私の気配を察知して隠れたのだろうか。それとも約束の時間までまだなのか。
どちらでもいい。こうしてラルフの元まで来てしまったのだ。もう後戻りはできない。
「申し訳ありません、作業の音がうるさかったでしょうか」
「……作業?」
「はい。月下美人の花が咲きそうだったので、様子を見に。ついでなので他の夜に咲く花の様子も見ようと……」
そう話すラルフは、日中と同じ格好をしていた。土いじりをするための手袋を嵌め、鎌や剪定バサミを携えている。女性と密会する格好には見えなかった。
「ラルフ、お前はステラと密会するためにここにいるんじゃないのか」
「奥様とですか!?!まさかそんな!なぜ庭師の僕が奥様と密会する必要があるのです!」
「……数日前の夜、ここでステラと待ち合わせをしていたではないか」
私の言葉に、あぁ〜、とラルフが困ったような声を出した。
「誤解を招くようなことをしてしまい申し訳ありません。あれは、月下美人を見るために待ち合わせだだけなんです」
「花を見るために夜待ち合わせていたのなら、やはりそれは密会ではないか」
「断じて違います!奥様と、それに侍女達と共にここで落ち合う予定だったんです。でも侍女の仕事が押してしまい、やむを得ず奥様だけ先にいらしたんです。その後に侍女達とも合流しましたから、断じて密会などではありません」
「……侍女の名前を言ってみろ。明日、確認を取る」
「ええとですね……」
ラルフが口にした数人の侍女の名前を記憶していると、ぶわりと風が吹いた。途端、濃厚な花の匂いが鼻をくすぐった。
「あの、旦那様、多分今夜も咲いておられますよ」
「月下美人がか」
「はい。ぜひ見に行きませんか」
密会だなんだの話をうやむやにしたいだけに思えたが、ラルフの言葉に従うことにした。
*
ラルフに案内された先。なるほど、ラルフの言うように、真っ白な大輪の花が、つんと空に向かって咲き誇っていた。
「今年は当たり年のようで、たくさん蕾をつけているんです。ほら、明日の夜もまた咲きますよ」
「……月下美人だというのだから月夜にだけ咲くものだと思っていたが……」
「そんなことありません。まぁ、そういう俗説もありますけどね。他にも、年に一度しか咲かないとかも言われていますが、こうして蕾を何個もつけて、夏の間にたくさん咲くんですよ」
花自体が大きいからか、香りもなかなかの強さだった。強い香りにクラクラしていると、ラルフが足元でなにか作業を始めた。
「なにをしている」
「一晩しか咲かない花なので、朝にはこうして萎んでしまうんです」
ラルフの手元には、萎んでしまった真っ白な蕾が。よくよく見れば、蕾には蟻が集っている。
「こうして剪定しないと虫が寄ってきますからね。いえ、虫如きに負ける花ではありませんが、やはり大切に扱うべきかと思いまして」
花のことを話すのが楽しいのか、ラルフのお喋りは止まらない。
「本当は日中にするつもりでしたが他の仕事が立て込んでいて……ほら、旦那様。明日はたくさんの花が同時に咲きますよ」
これ、これ、これ、これも明日咲きます。とラルフが蕾を指差していく。なるほど確かに、蕾は今にも咲かんとぷっくり膨れており、今咲いている花と同じように、つんと上を向いている。
「せっかくたくさん咲くんです。奥様と一緒に見られてみてはどうでしょうか」
「……一緒に見る理由がない」
「でも奥様は、イヴァン様はこの花の美しさをご存知なのかしら、とこの前お話しされていましたよ?」
「……、……そうか」
また夜風が吹いた。大輪の花は、風に負けることなく、粛々と咲き乱れている。
*
翌日。
ラルフから名前の上がった侍女をひとりひとり尋ねたが、やはり月下美人を皆で見ただけのようだった。
口裏合わせをしたのではという疑念も勿論湧いたが、誰も彼もがうっとりと花のことを話すので、その疑問も徐々に解消されていった。
時は進んで夕食の時間。
ティーパーティーをきっかけに、最近では他愛のない話もごく稀にするようになっていたが、執務室でのやり取りがあってから、ステラは話すことをしなくなった。
ナイフとフォークが皿に当たる音だけが静かに響く。奥様と一緒に見られてみてはどうでしょうか、ラルフの言葉がぐるぐると頭を巡っていた。
そうこうしているうちに夕食が終わった。
挨拶と共にステラが席を立つ。
ここで別れれば、今夜はもう会うことはない。
別にステラと花を見る理由もないし、誘う動機もない。だが今夜はなぜだか、どうしても、その背中を呼び止めたかった。
「ステラ」
これまで夕食の後に呼ぶことなどしなかった。だから返事より先に、ステラの肩が大きく揺れた。
「……なにかご用ですか?」
ステラが振り向く。私に向ける視線には、どこか怯えの色が混じっている。
「……その、なんだ」
呼び止めるところまでは良かったが、次の言葉を考えていなかった。言葉を濁す私を前に、ステラは訝しげな顔をする。
「……花を、」
「……花を?」
「……、……花を、見に行かないか」
「……お花、ですか?それは……明日の予定に入れろというご命令で?それとももっと別日の、」
「違う。今夜だ。……月下美人という花があるのだろう?ラルフから、今夜たくさん咲くだろうから、奥様と見ると良いと言われて」
なぜだかステラの顔が見れなかった。
目を合わせて話すことができない。だからステラがどんな顔をしているのか、わからなかった。
そしてステラからの返事も、すぐには返ってこなかった。嫌だったろうか。今夜はなにか別の予定があったのかもしれない。だが訂正する言葉を持ち合わせていない私は、ただじっと、ステラの言葉を待つことにした。
「……いいのですか」
「……なにがだ」
「イヴァン様と、お花を見ても」
「……なにか問題でもあるのか」
「……、……いえ、その、でしたら、準備して参ります」
そうして集合場所と時間を決めてその場は解散となった。どこか慌てた様子で、ステラは自室へと戻っていった。