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 5年ぶりに足を踏み入れた夫婦の寝室。久しぶりに入ったというのに、埃っぽさはまったく無かった。調度品はよく磨かれており、カーテンには染みひとつない。サイドテーブルにはとっておきのワインと揃いのグラス。鼻腔をくすぐる花の甘い匂い。今の季節は冬で、だから暖炉からは木の爆ぜる音がした。


 妻が死んでから初めて入るというのに、その部屋は、ずっと使われていたかのような佇まいをしていた。家令あたりが手入れをしていたんだろう。


 ぐるりと部屋を見渡して。最後に、ベッドへ視線を向ける。

 皺ひとつない、真っ白なシーツの真ん中。

 同じく白い、絹のネグリジェを纏った女がひとり、震えて座っていた。

 

 女の髪は金色。少しウェーブががっている。腰ぐらいまでの長さはあるだろうか。海を思わせる青い目が、怯えた目付きで私を見上げていた。


「そう緊張するな」


 喉がカラカラに乾いていた。

 

「私は、君を愛するつもりはない」


 怯えていた妻の目が、ゆっくり見開かれる。


「だから君を抱くこともしない。そう緊張するな」





 先妻——セレーネとの結婚のきっかけは、なんてことない伯爵家同士の政略結婚だった。

 

 正直なところ、結婚にはあまり乗り気ではなかった。セレーネとは長いこと顔も合わせないまま婚約だけ結んでいた。20歳になり、そろそろ結婚に踏み切ってくれ、と両親に頼まれて、セレーネと初めて会うことになったのだ。乗り気ではなかった。なんの期待もせず顔合わせの場に臨み——そのあまりの美しさに、セレーネに一目惚れしてしまったのだ。


 セレーネは、艶のある黒くて長い髪が印象的な女性だった。私も同じ黒い髪なのに、彼女の髪はなんだかとても美しく思えた。


 セレーネは、瞳も黒曜石のように深い黒だった。君は目も髪も美しい黒色だね、と伝えると、イヴァン様の深い緑の目もとても素敵ですよと褒められてしまったのを今でもよく覚えている。


 出会った時には18歳になったばかりだったセレーネは、しかし体が弱く、あまり外に出たことがなかったらしい。だからだろうか、もの静かで落ち着いていて、まさに深窓の令嬢といった佇まいだった。


 乗り気ではなかった結婚。けれど、セレーネに一目惚れしたあのとき、彼女を絶対に幸せにしようと決心した。


 

 けれども。そんな結婚生活はたった一年で終わってしまう。



 セレーネが流行り病に罹り、亡くなってしまったのだ。


 死ぬような病ではなかった。だが体の弱いセレーネは、闘病むなしく亡くなってしまった。



 一年。振り返ってみれば、あまりにセレーネにとって可哀想な一年だったと今でも思う。


 結婚初日、閨を共にした。不幸なことに、翌朝セレーネに月のものがきてしまう。それが終わるのを待っているうちに、領地内で流行り病の感染が爆発したとの連絡が入る。対応に追われ、月のものが終わったセレーネを抱くどころか、顔を合わせる暇もないまま月日は過ぎていく。ようやっと病への対応が一段落したところで、セレーネは病に罹患してしまった。


 腕の良い医者を呼び、滋養の良い食べ物を与え、あらゆる薬を試し、しかしそれら全てが無駄に終わった。政務の間を縫って会いに行くと、彼女はいつもベッドに臥せっていた。日当たりの良い部屋で、窓の外をぼんやりと眺めながら、彼女は1日を過ごしていた。


 日に日に弱っていくセレーネ。私はその現実を受け入れることができなかった。


 だって私はまだ彼女を幸せにできていない。たった一度きりの夫婦の夜、一体どんな子が産まれるのでしょうね、と恥じらいながら笑ったセレーネ。彼女となら幸せな未来が待っているとそう思ってやまなかったのに——、現実は残酷なもので、セレーネは日に日に呼吸を弱くしていく。呼びかけにも次第に応じることがなくなっていく。手を握っても握り返すこともなくなった。セレーネ、セレーネ、お願いだ、まだ死なないでくれ、——けれどそんな願いもむなしく、夏のある夜、セレーネは私の腕の中で息を引き取った。

 


 そこからの記憶は曖昧だ。

 どうにか葬儀を執り行い、セレーネの両親に頭を下げた気がする。もともと体の弱い子でしたから、伯爵様のせいではありません、とかなんとか言われたような気がする。領地の隅で隠居生活を送る自分の両親からは、あまり気を落とすなと言われたような気がする。


 はっきり覚えているのは、無理を押してセレーネの墓を屋敷の敷地内に建てたことだけ。 


 






 そうして5年が経った。


 週に一度。花を抱えてセレーネの墓に訪れ、セレーネにその週あったことを話す。冷たい墓石を撫でると、まるでセレーネと触れ合っているようで心が落ち着いた。

 ぽっかり穴の空いた心。いつもどこか心がふわふわと宙に漂っているような、そんな感覚。地に足を着いている実感がなくて、セレーネの墓前でだけ、自分を取り戻したような気がしていた。


 そうしながらも領主としての務めはきちんと果たしていた。堅実に運営し、しばらくは安泰だろう。その矢先だった、両親から再婚の話が持ちかけられたのは。


 もちろん断固として拒否した。セレーネ以上に愛せる女性などいないからだ。だが後継の問題もあり、後妻を迎えざるを得ない状況になっていたのだ。


 何人かの令嬢が候補が上がった。誰と結婚しようが、自分はセレーネのことを忘れることは出来ないだろう。だがせめて、容姿だけはセレーネと真逆の令嬢にしよう。そうしなければ、きっと今以上にセレーネの影を求めてしまう。

 悩んだ末選んだのが、デビュタントを終えたばかり、18歳になるステラだった。


 



 君を愛するつもりはない。

 そう告げられたステラは、体を震えさせながら口を開いた。


「……なぜ、ですか……?」


 言いたくなかった。

 セレーネへの想いは自分だけのもの。誰にも打ち明けたくはなかった。


「理由は言えない」

「……私になにか落ち度がありましたか?」

「いいや」

「では、なぜ、」

「言えない。いや、言いたくない、が正しいかもしれない」

「…………セレーネ様、ですか」


 シーツを握りしめながら、震える声でステラがそう尋ねた。


「……」

「……社交界でも有名です。ブラックウェル伯爵はお亡くなりになられたセレーネ様を今でも愛していると。だから後妻を取らないのだと」

「…………そうだ、その通りだ。私は今でもセレーネを愛している。だから君を愛するつもりはない」


 私の言葉に、ステラが下唇を噛み締めた。なにか考え込むように視線を彷徨わせる。


「君が望むのであれば離縁も受け入れよう。もっともこの国では、離縁するために最低2年は結婚生活を送る必要があるが」

「……存じておりますとも。では、私たちは2年後に離縁するという方向でよろしいですか」

「君がそう望むのであればな」


 後継のことを考えれば、ステラと別れるべきではなかった。今すぐにでも子作りをしなければならないぐらいだ。だが、ステラを前にしても、体も、心も、なにも反応しなかったのだ。

 あるのは、セレーネが死んでからずっと抱え続けている空虚だけ。ステラと離縁すれば、両親だってもう再婚は諦めてくれるだろう。後継に関しては、遠縁の子供か、養子でもあてがえば良いと思っていた。


 そうして、私とステラの、終わりに向けた結婚生活は始まったのだった。

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