68 令嬢は攫われる①
エマさんをはじめ、ヴァルハン村の人たちは皆、私に少し距離を置きつつも、いつも親切にしてくれた。
家族の愛情を乞うこともなく、周囲の期待に縛られることもなく、一人の平凡な平民女性として職を持ち、私はあの小さな村で穏やかな日々を過ごしていた……
オダヤカ?
「このブスが、役立たずめ!俺がいなきゃ生きていけねぇくせに、俺に逆らう気か!
「父ちゃん、やめて!母ちゃんを打たないで!母ちゃんが、死んじゃうよ……うぅぅ……」
患者への定期訪問に向かう途中、女性に手を上げる男性の姿を目にした。そばには幼い子供がいて、必死に男性の服を掴み、止めようとしていたが、その努力は空しく、箒が女性の体を打つ鈍い音が響き、それはまるで自分の心臓をも打ったかのように重かった。
「エマさん!あれ、止めに行かないと!」
「ダメよ、シアちゃん。気持ちは…分かるわよ、分かるの。でも、落ち着いてちょうだい。あれは……彼ら家庭のこと」
明らかに夫婦喧嘩の域を越えた暴力に、止めに入ろうとした私の腕を、エマさんは無理に作った悲しげな笑みを浮かべながら、強く掴んだ。
「わたしら部外者が口を出しても、何も変わりゃしないわ。大丈夫、ラグスの奴もそのうち、落ち着くわ。またいつも通りになる……きっと……だからね?」
その手から伝わる熱と、懇願するような眼差しに、彼女は全身で何かを堪えていることが伝わっていた。
エマさんの家は代々村の薬店を経営している。彼女は“医師”だと名乗っているが、女性は医師の資格試験を受けることが許されていないため、彼女の本当の職業は薬師である。
だから、彼女が私を助けた行為は謂わば『無資格医療行為』、世間では彼女のような人を野良医師と呼ぶ。
野良医師たちは、正式な資格を持たず、充分な知識や技術もないまま患者を診ることが多い。未熟な腕で診断を行ったり、治療の失敗により命に関わることも少なくない。
そのためか、彼らは特定の場所に定住せず、各地の村を転々と渡り歩くのが常だ。
しかし、試験そのものにすら参加を許されないエマさんはそういった野良医師たちとは違う。薬師としての経験が豊富で、これまで数多くの現場で診療を行ってきた彼女の方が、よほど信頼できる──少なくとも、一患者としての私はそう信じている。
だが、それでも多くの村人たちは、軽い病なら昔ながらの民間療法と気力で治そうとし、病が重くなると、なぜか通りすがりの野良医師を頼ってしまうのだ。
はあー。でも、それも仕方のないことだ。医師であれ薬師であれ、これらの専門職は、世間では男性の領分とされている。
エマさんの父親も当初、彼女に明らかな才能があったにも関わらず、彼女を跡継ぎにすることを渋っていた。だが、男児に恵まれず、最終的には彼女に継がせるしかなかったという。
実の親にさえ迷いがあったのだ、村人たちの信頼を得るのは、なおさら難しい。
そのため、エマさんがどれほど“医師”として村のために尽力しても、村人たちはそれをまぐれと決めつけ、彼女を単なる薬師としか見ていなかった。
病気の相談に訪れるのも、ほとんどが女性や子供ばかりで、男性たちは頑なに外から来る野良医師を頼る始末。中には、露骨に彼女を軽んじる者もいたほどだ。
***
目を開けると、そこは暗い物置のような部屋だった。
窓の隙間から差し込む微弱な光に照らされ、積み上げられた箱、乱雑に置かれた薪や見慣れない道具などがうっすらと見える。
意識を失う直前の記憶が蘇り——
もしかして、私、誘拐された……?でも……、なんだかふわふわしている?!
気がつけば、私は硬い床ではなく、ふんわりとした毛布の上に横たわっていた。丁寧に布団までかけられており、手足も自由のままだった。
相手に害意はない?……ことでしょうか?
疑問が浮かぶものの、不思議と焦りはなく、心は妙に落ち着いている。
目がようやく闇に慣れ始めた頃、私は静かに身を起こし、周囲を確認しようとした。
すると、「ズッ……」という鈍い音と共に扉が開き、突然の眩しい光に目がくらみ、私は反射的に顔を背けた。
「あ、すみません。明かりを小さくしますね」
入室した人は若い少女の声をしている。
言葉通り、すぐに明かりは和らぎ、私はゆっくりと顔を上げた。目の前に立っていたのは、にこやかに微笑む若い少女。
日差しを思わせるチョコレート色の肌、整えられた灰色のショートボブ、そして宝石のように輝く、澄んだ葡萄色の瞳。年相応のあどけなさを残しつつも、誰が見ても美少女と呼ぶにふさわしい容姿をしている。
「おはよう。よく眠れましたかな?姫ちゃん」
姫ちゃん???
頭の上にいくつもの疑問符が飛び交ったが、私は取り敢えず警戒しながら、無言で頷いた。
「それはよかったですわ」
これも友好的に可愛い笑顔でした。その姿はとても誘拐犯には見えない。
もしかして、彼女は私と同じ、攫われた人?
「あの…、ここは?」
「ええとね、わたくし達にもよく分からないのですわ。追っ手から逃げていたら、たまたまここに入り込んでしまいましたの」
違った、この子は誘拐犯だった。それに、『たち』ってことは複数人?相手の人数と居場所が知らない今、下手に動くのは危険だ。
そう身構えた私に対し、彼女は小さく首を傾げ、まるでこちらの緊張を和らげるかのように、にこりと微笑んで一歩、距離を縮めてきた。
「あなた、あの猫の獣王族さんの味方だったりします?逃げるときに、あなたのこと呼んでましたよね。『お嬢様』って」
獣王族?獣人族と同じ意味?
でも、ライラは猫族の特徴を固有魔法で隠してたはずなのに、どうして気づかれたの?或いは、そもそもの人違い?
「ええ」
彼女の目には探るような悪意はなくて、ただ無邪気な好奇心がきらきらと輝いている。
その瞳に見つめられていると、すべてを見透かされているようで、嘘をつくより先に、口が自然と動いてしまった。
「ふふっ、やっぱり当たりでしたわね。男装しているから、聞き間違いかとも思ったけれど。あなたってお肌がとっても綺麗ですし、きっと育ちのいいお嬢様なんだろうなって思ってましたのよ」
彼女は当たったと嬉しそうに笑った。
それとは対照的に、私は深く後悔した。安全を少し確保できた代わりに、人質としての価値を自分で上げてしまった。
うぐぅ、バカだわ、私。
「大丈夫ですよ。あの獣王族さんには助けてもらった恩がありますもの。ですから、あなたに危害を加えるつもりはありませんの」
悔い私に察した彼女は慰めの言葉を付け加えたが、その意味がよく理解出来なかった。
ライラが彼女たちを助けた?ライラが彼女たちの誘拐活動に手伝った?ライラが私を裏切った?!
――違う。そんなはずがない!契約魔術があるのだ!ライラが私を裏切るはずがない!
それに、それに彼女の言葉からして、ライラと私の関係を事前に知っていたとは思えない。
それに……意識を失う直前に聞こえたライラの声、あの声に込められていた心配は、きっと本物だった!
「ねぇ、お家は何処ですか?この場所から抜けたら、安全な場所へ送りますよ」
初対面、しかも誘拐犯に、屋敷のことは勿論言えず、私は今度こそ惑わされまいと、彼女の言葉に返事をするより先に、両手を背後に隠し、こっそり武器の指輪に触れ、逆に問い返した。
「貴女たちは誰?何故あそこで騒動を起こした?私をどうしたいの?!」
あっ、また間違えた。もっと慎重に行動すべきだったのに。こんなふうに質問を畳みかけるなんて逆効果、かえって反感を買うだけではないか!




