56 令嬢はルナの兄を探す③
男性に連れ出された先は、赤い建物が立ち並ぶ場所だった。周囲の荒れた平民の住宅地とは対照的に、建物は豪華な装飾で彩られている。
しかし、まるで時間が止まったように、道には人の気配はほとんどなく、街全体が不気味なほど静まり返っていた。
「ここはどこなの?」
「歓楽街だぜ。夜になればもっと綺麗になるよ」
不思議に思う私に、男性は少し誇らしげに街を紹介した。
聞いたことのない『歓楽街』という場所に、何となく嫌な予感がする。
でも彼に押される形で、どうすることも出来ず、そのまま中心になる一番立派な夜蝶館の看板を掲げている建物に入った。
室内も赤を基調とした装飾で統一され、家具は屋敷の高級品ほどではないものの、それなりに質の良い家具が揃っている。開け放たれた窓から涼しい風が流れ込むにもかかわらず、香水の甘い匂いが空気中に染みつき、鼻を擽る。
広々とした空間には人影はほとんどなく、カウンターには一人の少女がいるだけだった。彼女は夢中で本を読み、その菫色の髪はツインポニーテールに結ばれ、赤い花飾りが彼女の動きに合わせて揺れている。
「よう〜、スミレちゃん、姉さんたちはまた寝ている?」
声をかけられた少女スミレは、顔を上げて満面の笑みを浮かべた。元気いっぱいにツインポニーテールを弾ませ、声まで楽しげに弾んでいる。
「やぁ!グレム兄ちゃん!今日来るのが早いね。姉ちゃんたちはまだ休憩中だよ、何か用?」
「お前、また何見てんだ?ええと、なになに、《無愛想な騎士様とわたしの濃蜜な夜》?これって前にも見てたやつじゃねぇの?」
「もー、グレム兄ちゃんたら、何も分かってないな!好きなものは何度読んでもいいのよ!」
スミレはぷくっと頬を膨らませながら可愛らしく口を尖らせた。
彼女はふと私の存在に気づくと、好奇心たっぷりの視線をこちらに注ぐ。
「この子はだぁれ?」
「客だよ」
「違います!」
当たり前の顔で私を客として紹介したグレムに、今度こそ、私は迷わずに反論した。
「そうかぁ〜」
スミレは小狐のような愛らしい笑みを浮かべ、軽やかにカウンターから勢いよく出てきた。膝上までしか覆われていない短めの桜色のスカートがひらりと揺れ、繊細な白い太ももが大胆に露出している。
な、なんて破廉恥な格好をしているの!
驚きと恥ずかしさに駆られ、私は思わず視線を逸らしつつ一歩後ずさった。
スミレの服の鮮やかさや質感は、さっき通りがかった貧しい平民たちとは全く違っていた。それどころか、あえて布面積を減らしているように思えるデザインだ。
しかし、そんな私の動揺などお構いなしに、スミレは目を輝かせながら勢いよく飛び込んできて、そのまま私に抱きついた。
「じゃあ、お兄ちゃんは〜、これから常連さんになるんだねぇ!あたしはスミレ、スミレちゃんって呼んでね。三年後、あたしが接客できるようになったら、絶対に!あたしを指名してよ〜」
彼女は潤んだ紫色の瞳で私を見上げ、幼いながらもどこか甘い色気のある声で囁いた。もし私が女性でなければ、彼女に射止められていたかもしれない。
それにしても、『お兄ちゃん』?身長とか、年齢とは、明らかにあっちの方が年上でしょう?
「よう!いいぞ、スミレちゃん。その調子でお坊ちゃんを誘惑しちまえ!」
面白がったグレムが隣で煽る声に、私は慌ててスミレを引き剥がそうとした。
「離してください!」
やや乱暴になってしまったかもしれないか、彼女は「いやぁ〜ん」と抗議の声を上げながら、しかめっ面をして、私の腕を掴んで離そうとしない。
この細い腕で、なんでこんなに力強いの!?最近訓練してきた私より力があるのではないの?
「もう、騒がしいと思ったら……何をしてるの、アナタ達」
そう困り果てる時、階段から柔らかな女性の声が響いた。顔を上げると、眠たげに欠伸をしながら現れたのは、緩めに整えた髪型に、大人びた雰囲気を纏った、薔薇の妖精を連想させる美しい女性だった。
彼女は身体のラインがよくわかる服を纏い、胸元が少し開いたデザインが目を引く。その仕草一つ一つから滲み出る衝撃的な大人ならではの色気に、私は無意識に息を呑み、頬が自然と熱くなるのを感じた。
女性はゆっくりと私に近づいてきて、周囲に濃厚な薔薇の香りが漂ったが、不思議と鼻を刺激するような嫌な匂いではなかった。
呆然と目の前に伸ばされた白くしなやかな指を見つめて、私は自分の頬が軽く突かれたのに気づく。
「あらまあ、顔を赤くして。なんて可愛らしいお坊ちゃんかしらね。グレム、どこから攫ってきたの?」
「えー、ヒデだよ、ローズ姉さん。人聞きの悪いこと言うなよ!俺は道に迷ってた坊ちゃんを親切に案内してやっただけだっつーの!」
グレムの言い分に、私はふわふわした感覚から意識が戻り、声を上げて反論した。
「違います。私はあの男性に無理やりここに連れてこられたの!」
ローズは少し驚いたように目を見開いた後、くすくすと笑った。
「まあ、この子はそう言ってるわよ?」
「ったく、恩知らずのガキだぜ」
彼女が楽しげにグレムを見やると、グレムは頭をガシガシ掻きながらそっぽを向き、ぶつぶつと不満げに呟いた。
ローズまたスミレに向き直り、穏やかながらも少し注意を込めた口調で嗜めた。
「スミレちゃんも、この子を放してあげなさい」
「は〜い、分かったよ、ローズ姉ちゃん」
スミレは名残惜しそうに私を一瞥して、しぶしぶと腕を離してくれた。
ようやく解放された私は、思わず大きな息を吐き出す。




