01 令嬢は悪夢を見た
全てが闇に包まれる空間に、一人の女性が歩いている。
彼女は重く、遅い足取りで、何もかもを諦めたかのように、気力を失った体を無理やり前へと引きずりながら、魂の抜けた亡霊のように、呆然と歩き続けている。
突如、どこからか、白く小さな花がひらりと舞い降り、彼女の足元に落ちた。
一枚、また一枚と、雪のように降り積もり、まるで彼女の進む道を阻むかのように、床を白く染めていく。
だが、彼女は歩みを止めなかった。無表情のまま、散らばった花を踏みしめ、淡々と前へ進んだ。
一体、何処へ向かうのか、彼女自身にも分からない。ただ、本能に任せて足を動かしているだけだった。
「チリン――」
不意に、澄んだ鈴の音のような音が足元から響き、踏み潰された花から光の粒が立ちのぼり、空へと漂いながら、何かに導かれるようにいくつもの点に集まっていく。
やがて、点と点が白い線でつながり、女性の周りを囲むと、彼女はようやく足を止めた。焦点のない瞳で無意識に目の前に現れた鏡を見つめ、そこに映ったのは自分の姿ではなく、過去の記憶が流れ始めている。
「ああ、可哀想なフリージアお嬢様、奥様が生きていれば……」
花壇の隅に身を隠し、外で会話をしているメイドたちの言葉に耳を傾けながら、幼い彼女は、亡き母が残した銀製の指輪を両手で強く握りしめていた。
「な、なんでお前がここにいるのよ! どっか行け! お前が僕の妹なんて、絶対に認めないからな!」
兄の誕生日に、彼女は自分が初めて縫ったハンカチを兄に贈ろうとしたが、宴の扉の前で兄に押し退けられ、冷たくそう言い放たれた。
「あの子さえ生まれてこなければ……。エリナ、私を一人にしないでくれ……?! 誰があの子をここに入れた! 部屋に閉じ込めろ!」
母の形見の指輪をなくし、探し回る彼女の姿を見た父は、酔った勢いで怒鳴り散らし、彼女を庭から追い返した。
当時の父の冷たい声と視線は今なお彼女の胸に深く突き刺さり、自分は望まずに生まれた子なのだと、彼女は悟った。
「お嬢様、大丈夫です。旦那様はただ酔っておられただけです。だから心にも無いことを、明日になればきっと…」
乳母はそうやって彼女を慰めていたが、酒を飲んだ後に漏れ出た言葉こそが真実であることを、彼女はすでに知っていた。
「お嬢様、どうか泣かないでくださいませ。お嬢様はお体が弱いから、長旅には耐えられないと旦那様が配慮なさったのです。王都での生活が落ち着きましたら、必ずお迎えに参りますでしょう。それまでにどうか、ご自分のお体を大事になさってくださいませ」
国王陛下の命令により、父は王都の職務に就き、兄と一緒に領地を去った。彼女は乳母と共に叔父一家が管理することになった屋敷に残された。
しかし、そのすぐ後、彼女のために乳母が叔父に逆らい、屋敷から追い出されてしまった。それ以来、広すぎる屋敷の中で、彼女はずっと一人だった。
「これが貴族令嬢の食べ物? 誰も取りに来ないから、冷めないうちに、わたしたちで分けましょう」
用意された食事でさえ、使用人たちに奪われ、彼女は黙って見ているしかできなかった。
死んでいるかのように生きる、それが周りの誰もが彼女に望むことだ。
「あらまあ、あれが噂のご令嬢かしら、体調不良でずっと領地にこもっていたというフリージア様? でも、あの不気味な瞳と髪の色はちょっと……」
13歳のとき、初めて舞踏会への出席が許されたものの、周囲の令嬢たちに好奇の目で遠巻きに眺められ、ひそひそと囁き合われるばかりで、誰一人として、彼女に話しかけてくれる者はいなかった。
「フリージア、すまないが、君との婚約を破棄したい。僕には真実の愛を見つけたんだ!」
「フリージア様、わたくしたちは心から愛し合っています!どうかジュリアン様を解放してください」
それは、めでたいはずの卒業式の日だった。彼女は公衆の面前で婚約者から突然婚約破棄を言い渡され、『捨てられた女』と呼ばれることになった。
「我がスペンサーグ公爵家に婚約を破棄された令嬢など不要だ。出て行け! 今日限り、お前との親子の縁を断ち切る!」
その日、彼女はついに、実家からも見放される運命に辿り着いた。
驚くことはない。自分が常に“捨てられる側”であることを、彼女はとっくに分かっていたのだ。
***
過去の映像が次々と映しては消え、18年間の短い人生が走馬灯のように一瞬で過ぎ去る。彼女は静かに息を吐き出し、胸の奥から込み上げる深い絶望に、そっと目を閉じた。
「何も、なかった……」
そう呟いた彼女の足元は、いつしか泥沼と化していた。冷たく湿った黒闇がじわじわと彼女を飲み込み、緩やかな速度で彼女を覆い尽くそうとする。
彼女の短い人生は、拒絶と圧迫、そして深い孤独の中で過ごされていた。振り返られる思い出など、何ひとつ存在しなかったのだ。
時間が流水のように静かに過ぎ、黒闇が徐々に彼女の体半分まで覆い、次第に体が冷たくなり、意識が朦朧としてくるのを感じたその時――
突然、耳慣れない優しい女性の声が聞こえた?!
「まあ、こんなところに娘さんが倒れているじゃないか! 安心しなさい、おばさんは医師だ。絶対にあなたを助けるからな」
真っ黒な視界に微かな温かい光が点滅しているのを感じ、思わず目を開けると、闇に呑まれ、消えかけた鏡の中で、ぼつぼつと断片的な映像が浮かび上がった。
家から追い出された後、彼女は何者かに追われた。どうすればいいのか分からず、ただ死への恐怖に駆られて、必死に逃げ続けた。
けれど、慣れない逃亡生活が長く続くはずもなく、あちこちに身を隠すうちに体力が削られ、彼女は早くも道端で力尽きて倒れてしまった。
しかし、もう、足掻くことを諦めかけたそのとき、見知らぬ女性が手を差し伸べてくれた。
その人の名は、エマ。
エマは正体不明の彼女を自宅まで連れ帰り、何を尋ねることもなく、手厚く看病してくれた。
そして、行き場のない彼女を娘のように迎え入れ、薬草の採集や薬の調合方法など、生活に必要な知識を優しく丁寧に教えてくれた。
それはすごく穏やかな日々でした。貴族令嬢としての人生が幕を閉じ、平民『シア』としての新たな人生が始まったのだと信じていた。
でも、それは間違いだった。
彼女は無自覚のまま、わがままにエマに依存し、その結果、エマを自分の事情に巻き込み、彼女の命を奪うことになった。
その悲劇は、あまりにも唐突に訪れた。
「フリージア嬢で間違いないな。かわいそうに、拙者はアンタの命を奪いに来た殺し屋でござる。心配せずとも、すぐに終わるさ」
冷酷な声とともに、殺し屋と名乗る男が現れた。
「シアちゃん、振り返らないで、山奥に逃げるのよ……ああっ!」
エマはすぐさま彼女を庇おうとしたが、直後、鋭い刃がエマの胸を貫いた。赤い血が、一瞬にして白い服を染め上げていく。
「エマ…さん? エマさん!?!!」
彼女は足がすくみ、動けなくなり、目の前で倒れていくエマの姿を、茫然と見つめることしかできない。
心の奥底から怒りと絶望の感情が一気に湧き上げ、耐えきれないほどの悲しみが胸を締め付けた。
でも、どうすることもできない彼女は、力なく膝をつき、溢れる涙とともに、悲痛な叫びを上げた。
「エマさん!!! いやぁ――」
突如として、彼女の身体から柔らかな緑の光が溢れ出した。
続いて、まるで呼ばれたかのように、無数の木の根が地面を裂いて湧き上がり、信じられないほどの速度で成長していく。
それらは意志を宿した生き物のように、彼女の周囲で螺旋を描きながら彼女を呑み込み、さらに彼女の願いに応えるかのように、血の海に横たわるエマの体までも優しく包み込んだ。
異常な光景に恐れるはずなのに、木の根がまるで彼女を守っているように、外から隔てられたその狭い空間の中で、彼女はすべての生物の“原点”に戻ったような不思議な感覚に包まれた。
が、それをゆっくり堪能する時間はなく、「ドンドンドン」と、なぜか心臓が突然暴れだしたかのように鳴り響き、激しい痛みが彼女の頭を貫いた。
全身の力が何かに吸い取られたように、すうっと抜けていき、糸の切れた人形のように彼女は地面へ崩れ落ちた。体の熱が失われていくのを感じながら、周囲の空気までも急に薄くなったように思え、息苦しさに喘ぐ中、耳に届く音も次第に遠のいていった。
滲んだ視界から、自分の身体が地面に溶け込んでいるように見え、彼女の意識は薄れていく。
そして、視界が完全に闇に沈んだその瞬間、彼女は不思議なほどに、安らかな心地がした。
――これで、すべてが終わったのだ。
***
ところが、運命の女神は彼女を弄ぶかのように微笑み、一度は幕を閉じたはずの人生が予告もなしに、再開のゴングを打ち鳴らされた。
彼女――
いいえ、あの人は私。すでに20年の人生を過ごし、そして命を散らした、過去の私。




