第7話 血塗の天使 Ⅲ
太陽が地平の下に沈む。普段ならば、家に籠る時間だ。
近づく夜の気配に、心がざわつく。気を抜くと、恐怖に支配されてしまいそうである。
アリスは半歩後ろから、エクスの後をついていく。剣術の授業で使う、訓練用の剣を申し訳程度に握り締めながら。
「ねえ……悪霊退治? 私がついていって、役に立つの? 私、この間の学校の剣術大会、二回戦で負けちゃったんだけど」
士官学校に通っているので、アリスはひと通り剣の扱いは習ってはいるが、決して強くない。両親が騎士だった為、手蔓で入学しただけだ。やりたいことも無かったので学生になっただけで、騎士になるつもりなど全くない。
エクスは無言で、何かを探すように淡々と歩く。何処に向かっているかは解らないが、だんだん人通りがなくなっていき、不安が増していく。
「エクス……くんは、悪霊の居場所がわかるの?」
「本物の悪霊は、すぐ隣にでも来ない限りは解らないかな。ただ、狂悪霊なら解る。臭いが濃いからな」
「本物? 狂悪霊って?」
「人間は違いがわかってないか。狂悪霊ってのは本当は……」
言いかけて、エクスがぴたりと立ち止まる。アリスは止まれず、エクスの背中に顔面をぶつける。
場所は、羅城近くの広場。
前方には、黒い人影がある。
「お出ましのようだな」
黒い人影は、よく見ると、全身が黒い触手で覆われた異形の存在だった。
口だけが大きく、所々骨が剥き出しになっていて——昨夜見た悪霊に、よく似ている。
ただ、昨夜見たものよりも随分小さく、手足に爪のようなものもない。大きさは、アリスと変わらないぐらいだろうか。低い呻き声を上げて、その場に突っ立っている。
「そんなに、大きくないね……?」
恐怖を感じないわけではなかったが、幾分マシである。
「ほっとくと人間を喰ってすぐ大きくなるからな。今のうちにサクッと狩るぞ」
「わっ、私も戦うの?」
とりあえず、訓練用の剣を構えてみる。腰が引けている情けない姿を見てか、エクスが眉を顰めながら言う。
「狂悪霊に普通の武器は通用しないぞ?」
「えっ!? じゃあ私、何すればいいの!?」
「歌え」
「……は?」
「知らねえの? 天使は聖女の祈りを力に変えて戦うんだよ。祈りを伝えるには歌が一番だ。ほら、歌え」
たしかに、エディリアにはそんな伝承があった。
百五十年前、史上最強と謳われた『イヴ』の名をもつ王族が、歌で天使に力を与え、その命と引き換えに、天使と共に『大悪霊』と呼ばれた悪霊を退けた、というものだ。
まさか、自分がそれと同じことをするなんて。想定していない。そして、それをするにあたり、アリスには重大な欠陥があるのだ。
「——えない」
「ん?」
「私、歌えないの」
「……? 音痴とか気にしなくていいぞ?」
「そういうのじゃなくて……」
言い掛けた瞬間——悪霊が苦しむような、おぞましい声を上げる。
背中側が盛り上がり、ブチブチと音を立て、蝙蝠の翼のようなものが生える。
「アリス! 来る!」
悪霊は地面を蹴り、飛ぶようにアリスに向かって突進してくる。
一瞬のことで、アリスには何が起きたのか分からなかった。ただ、目を開けると、エクスに抱きかかえられるようにして、悪霊と距離を取っていた。
「歌えないってどういうことだ?」
悪霊から目を離さないようにしながら、エクスはアリスに問う。
「えっと……子どもの頃は歌えたの……双子の妹が、私の歌を聞くのが好きで——妹が死んでから……歌おうとすると、息が詰まって、呼吸ができなくなって……」
声帯や発声に異常はない。医者には心的外傷によるものだと言われている。
「歌えないの」
「……そういうのはもうちょっとはやく教えて欲しいんだが!?」
再び悪霊は咆哮し、突進してくる。エクスはアリスを抱えながら、それを避ける。
「困ったな……祈りがないと天使は本来の力を発揮できない」
「昨日はあんなに強かったじゃない?」
「あれはアリスの前の聖女が貯めた霊素を使って、お前の『助けて』という願いを叶えただけだ。今の俺には蓄えもなければ祈りもない。つまり俺たちは——」
「俺達は?」
「クソザコ二人だ」
「ええっ!?」
翼を打ち、悪霊が飛ぶ。エクスとアリスの上空から襲いかかってくる。
アリスは悲鳴をあげ、顔を伏せる。エクスは舌打ちし、悪霊に向かって左腕を突き出す。
バキィ——と、骨が砕けるような音がする。
アリスは恐る恐る顔を上げると、そこには左腕を悪霊に噛まれたエクスの姿があった。悪霊はそのままエクスの左腕をブチブチと食いちぎり、後ろに跳び退く。
ひうっ、と声を上げ、固まるアリス。
「腕……エクス……腕が!」
「……この程度じゃ天使は死なない」
エクスの千切られた左腕から出血はない。ただ、痛みはあるらしく、エクスは歪むような苦しげな表情をしている。
「どう……どうしよう……!」
アリス達から数メートル離れたところで、悪霊はエクスの腕を夢中で喰らっている。
「そうだな……とりあえず、奴が俺の腕に気を取られている間に……」
エクスは右腕で脇にアリスを抱えると——
「逃げるぞ」
そう言って、二人は夜の広場を後にした。
* * *
「…………」
命からがら自室に戻ってきた二人は向き合い、地べたに座りながら沈黙する。
驚くことに、エクスの左腕はしばらくすると生えてきた。だが、完全回復はしていないようで、だらりと下がったままである。
「……ごめんなさい」
アリスが声に出す。
「なんで謝んの?」
「私が歌えてたら、こんなことには……」
「んん……俺も先に確認しなかったしなあ」
再び沈黙する。しばらくして、ふう、とエクスは息を吐き、立ち上がる。
「まあ、悪霊と戦うのは俺一人でなんとかしてみるから、アリスは聖堂の門のこと、調べてもらえると助かるわ」
「……一人で戦えるの?」
「さあ? 無理だったら俺が死ぬだけだし?」
まるで死ぬことを何とも思っていない、そんな口ぶり。
「おやすみ、アリス」
そう言って、エクスは部屋を出ていく。
アリスは俯いたまま、顔をあげることができなかった。
◇ ◆ ◇
羅城近くの広場を、散歩する影が三つ。
一人は二十代後半ぐらいの男で、王都騎士団の紋章のついた黒い外套を纏っている。
残りの二人は齢十ぐらいの、首に赤いリボンを巻き、黒猫のような艶やかな髪をした、よく似た男女の子ども。
夜更に、明かりも持たず、子どもを連れ歩くなど、この地ではありえない。
そんなあり得ない状況で、三人は悠々と歩いている。
「いつまで探すでありますか? 夜の散歩はもう飽きてきたであります!」
女児の方が、退屈そうにしながら文句を言う。
「っていうか夜に女の子を探すっておかしくないですか? 普通の女の子なら夜は外にいないですよ」
男児の方も疲れた顔をし、大きな欠伸をする。
「…………」
男は無言で辺りを見回す。ふと目に入ってきたのは、何かの骨にしゃぶりつく悪霊の姿。悪霊は男に気が付くと、骨を放り投げ——一目散に逃げ出す。
「逃げることないだろう」
甘く囁いた男は、一瞬のうちに悪霊の目の前に迫ると——その身体を手刀で、真っ二つに割る。
叫び声をあげ、蒸発していく悪霊。人骨のようなものだけが、その場に残される。
悪霊だったものの骨を足蹴にしながら、吐き捨てるように女児が言う。
「なんでありますか、この雑魚野郎は」
「最近多いですよね~狂悪霊。天使と騎士団は何をやっているんでしょうかねえ」
男児は男を見上げて言うが、男の興味はもうそこにはない様子だ。
夜風が吹く。どこからかやってきた、白い花びらが闇を舞う。その花びらを愛おしげに見ながら、男は呟いた。
「どこにいるんだろうな、リリー」
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