第5話 血塗の天使 Ⅰ
アリスは頻繁に、子どもの頃の夢を見る。
角部屋の正面の窓際で、月に向かって歌う幼女。その様子をベッドに入ったまま、眠たい目を擦りながら眺める幼女。
二人の容姿は、鏡に映したようにそっくりだ。
「アリス、そろそろ寝ようよ」
「うん、リリス」
歌っていた幼女は、もう一人が待つベッドへと向かう。天蓋付きの、二人で飾り付けた、お気に入りのお姫様ベッドである。
「えへへ、あったかーい」
「アリスはひんやりしてる」
「あっためて」
お互いの体温を分け合い、心が満たされる。
「ねえ、リリス」
「なあに」
「私たち、ずっと一緒だよね——」
——幸せな夢は、覚醒していくにつれて悪夢へと変わる。
土砂降りの中、地べたに座っている。
魂の片割れを喰おうとしている悪霊の背中を、ただ見つめることしかできない。
「……リス……て」
何かを叫んでいる。きっと助けを求めている。
助けなきゃ。そう思っているのに、いつも身体が動いてくれない。
動悸と吐き気だけが、どんどん強くなっていく。
「……リス」
「アリス」
「……うん?」
誰かに呼ばれた気がして、目を覚ます。寝汗をびっしょりとかいていて、不快だ。寝返りを打とうとすると、左腕が何かに当たる。
「おはよう、アリス」
赤い瞳と、目が合う。
自分の隣に、誰かが寝ている——
あまりの距離の近さに、アリスは甲高い声で叫びながら飛び起きる。
「変態!!」
同じベッドに、異性と思われる人物が寝ていたという事実に衝撃を受ける。錯乱し、とりあえず目の前にあった枕を投げ付ける。
「俺、変態じゃないぞ」
枕が直撃して乱れた白髪を直しながら、子どものように頬を膨らませて青年は言う。
「え……待って、これ、どういう状況?」
アリスは辺りを見回す。見慣れた角部屋、天蓋付きのダブルベッド。二つ並んだ、勉強机。間違いない。ここは自宅——アリスの部屋だ。
「夢……じゃない? 私、城にいたよね? 婚約式は?」
「アリスが悪霊と戦った後、気を失ったからここにつれてきた」
「なんで私の家を知ってるの!?」
「この地で暮らす人間の情報は全て記録している。お前はアリス、十七歳、士官学校二年生、二番地在住、だ」
やはり状況が理解できない。それよりも、まず、聞きたいこと——
「貴方、何者なの……?」
「……そうだな、ちゃんと自己紹介してなかったか」
そういって白髪の青年はこほん、と咳払いする。
「俺はこの地で五十番目に造られた天使! 識別名はエクス! 今年で……」
そう言って青年は自分の手を確認しながら指を立て——
「三歳だ!」
得意げな顔で、『三』を示した手を突き出す。
「赤ちゃんじゃん!」
「三歳は赤ちゃんじゃないぞ!」
青年——いや、幼児? は不満そうな顔でアリスを見る。
そんな青年を見つめ返し、アリスは呆れた声を出す。
「エクスくん……でいいのかな? 天使って何? 絶対に噓でしょ? エディリアの天使は主の御使いであり、天使の声を聞いたり姿を見ることができるのはこの地で猊下だけなんだから! 民を導く存在、すごいものなの! 詐称するなんて罰が当たるわ!」
「お前、見たことあるのかよ」
「ないけど……ないけど、貴方じゃないことは解る!」
エクスというらしい青年は考え込むような仕草をした後、何かを閃いたのか、ぱっと顔を上げる。
「あ、分かった。羽だろ? 羽がないから天使だって解ってくれないんだろ。人間って羽が好きだよなあ」
そう言ってエクスはアリスの前に立つと、よく見てろよ、と言う。
アリスの顔に、どこから吹いてきたのか、ふわっと風が当たる。見ると、エクスの背中から——白い羽が生えていた。
「どう? これでいい?」
アリスは目を擦る。羽だ。たしかに背中に羽が生えている。天使かどうかは別として、ただの人間ではないことは確かであろう。
「……術師?」
「術じゃなくて、本物の天使なんだよ」
そう言うと、エクスの背中から生えていたものが消える。部屋にはひらひらと、数枚の羽根が舞う。
「お前がさっき言ってた、民を導く存在ってのは、大天使のことな。俺らの長だ。で、大天使の他にもこの地には天使が五十人ほどいる。俺はその中でも最後に補充された天使だ」
(天使の赤ちゃんってことか……)
アリスは信じ切ったわけではないが、一応、耳を傾けてみる。
「俺ら下っ端の天使のやることは、主に、悪霊を狩ることだ」
「悪霊を……」
アリスは昨日のことを思い出して、ぞっとした。今、生きていることが奇跡のように感じられる。
「本来、俺は王都の担当ではない。王都には大天使も王都騎士団もいるから、他の天使は別の場所で見回りをしている。俺は王都よりもっと南にある、ベルマリアの担当だったんだ。そして——」
エクスは非人間的に美しい顔をしかめて、言葉を続ける。
「ある日を境に、ベルマリアに悪霊が増えた」
「悪霊が増えた?」
「ああ。今までの比じゃないぐらいに悪霊被害が増大してな。イジョウジタイ? だから俺は長に連絡を取ろうとしたのだが、全く返事が返ってこないんだ」
エクスは落ち着きのない子どものように、身体を左右に揺らしながら話す。
「仕方なく会いに王都まで来たのに、長がいるはずの王城の聖堂の門は閉まっているしで、もうどうしたらいいのやら」
「そ、それで私の前に現れたわけ?」
それならもっと、天使らしく、神々しく登場して欲しかった。窓から盗人のように侵入してくる天使なんて聞いたことがない。
「俺、すごく困っているんだ、アリス」
「え……うん……」
「困ってる天使がいたら、助けるのが人間の務めだろ?」
「そうなの……?」
「ああ! 俺を助ける、そうすれば悪霊が減る! それはイヴと大天使を助けることになる! そしてこの地の平和が約束される!」
「猊下を助ける……」
その言葉に、少しだけ興味を揺さぶられる。
「というわけだ。早速だがアリス、聖堂の門について……」
「待って」
静止され、きょとんとするエクス。アリスは壁掛け時計を確認し、静かに告げる。
「……遅刻しちゃう」
* * *
アリスの通う士官学校は、王都エディリアの中心部にある。
正方形の建物の四隅には小塔があり、元は騎士団の司令部や牢獄として使われていたらしく、重厚な建造物だ。すぐ隣には、エディリアで一番大きなトレイド大聖堂と、現在では催事場となっている闘技場がある。
その中の一室で、講義が開かれている。
講義を受ける生徒達は皆、濃い紺色に、金色の装飾が施されている制服姿。
なんとか開始時刻に間に合い——アリスは着席していた。
「神動術は、人間、動植物、無生物など、全てのものに宿っている『霊』と心を通わすことによって、業を為します」
教鞭をとる人物が、説明を続ける。
「機械は『霊』を動力源にし、誰でも簡単に神動術のような力を使うことができるようにしたものです。よって技術者を目指すものは、神道術の基礎を知っておく必要があります。試しに皆さんも、手元の豆電球に明かりをつけてみましょう」
神動術。昔は主に選ばれた人だけが使える、崇高な術だと言われていた。それを操る『術師』と呼ばれる存在も貴重で、王家でも重宝されていた。
だが、機械の登場によって、現在は職を失いつつあるらしい。ここ十数年で機械が発達したことによって、夜も明るくなったし、火種や薪がなくても大量の湯を沸かすことができるようになった。いつでも風呂に入れるようになったのが、アリスは一番嬉しい。
生徒達が、実技にとりかかる。
「いや、全然分からん。全然つかない」
「お前、信仰心が足りないんじゃない?」
そんなやり取りを横目で見ながら、アリスは豆電球に念を送る。ぽう、と小さな明かりが一瞬つくが、すぐに消えてしまう。
集中力が続かない。その原因は明らかだ。
「すごいなあ! 王都の学校は!」
教室に、はしゃぎ回るエクスがいるのだ。
「一部屋だけでこんなに広いんだな! 俺のいたところにはこんなに大きな学校はなかったな?」
アリスは周りに聞こえないような、小さな声で呟く。
「静かにして……」
「大丈夫だ、アリス以外に俺の姿は見えないし、声も聞こえないからな!」
実際に——その通りらしい。現に、謎の青年が子犬のようにうろうろしては生徒たちをじっと見つめているというのに、誰も反応しないのだ。
どうやら『本物』らしい。
アリスの頭がどうにかなってしまっていなければ、だが。
「お前、神動術上手だな」
アリスの手元を見て、エクスが言う。
「このぐらいなら……術師や技術者になれるほどじゃない、全然」
「なんで? いいじゃん。得意なこと仕事にした方がいいぞ? 楽だからな」
「簡単に言う……」
正直、悪い気はしない。ここ最近、お前には何もできない、としか言われていなかったから、少々照れ臭く感じる。
「人間の作った機械ってのは、霊を取り込んで発動するんだな」
エクスが興味深そうに、教壇の横にある照明装置を見る。
「俺は大天使の作った身体に固有の霊が入ってる。似ているけどちょっと違うな」
何だか難しいことを言っているエクスを無視し、アリスは教室内を見回す。
(みんな、特に、普通よね……)
昨日の式に参加していた生徒が数人いるが、アリスを気にする様子はない。アリスが婚約式を抜け出して帰ったことは、参加者には気づかれていないのだろうか。
同じ教室で授業を受けるはずのセトの姿はない。元々、セトはよく授業をふける。なので、たまたまなのか、昨日のできごとのせいなのかは解らない。
(というか、昨日はあのままセトと別れたことになってるのよね? だとすると私めちゃくちゃ怒ってる感じ……?)
確かに、思い出すと嫌な気分にはなる。
しかし、セトとアリスは婚約関係にある。このままではいけないだろうとは思うが、考えるだけで面倒くさい。
(どうしようかな……)
消えたままの豆電球を見つめ、アリスは深い溜息を吐いた。
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