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ダクスの女神  作者: 森松一花
第1章
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第4話 夢裡の少女 Ⅳ

 アリスは城の裏扉の前で深呼吸をする。

 みぞおちのあたりが空っぽになったような、嫌な感じがする。


(大丈夫、何かあっても、すぐ城に戻ればいい。少し探すだけ、少しだけだから)


 アリスは自分に言い聞かせ、決戦に向かう騎士のごとき覚悟で扉を開け、外へ出る。


 扉の向こうは城の裏側——木々が生い茂る森。昼間は王族が狩りをするために入ることもある場所だが、夜は当然ながら足を踏み入れる者はいない。


 森に限った話ではない。この地では、夜、みだりに外へ出てはいけない。皆、そう教えられて育つのだ。


 アリスは地面を注意深く見ながら小走りに移動する。見上げて控室の位置を確認する。


(落ちていたとしたら、この辺りのハズなのだけれど……)


 暗い闇が広がっているばかりで、何も見つからない。この状況で、一人で、ごく小さな首飾りを探すのは、ほとんど絶望的だ。


 アリスは深いため息をつき、足元をじっと見下ろす。

 どうして首飾りを持ってきてしまったのだろう。大切なものなのだから、しまっておけばよかったのに。


 ——あれは『彼』から貰った、唯一のものなのに。


 アリスが肩を落としていると、夜の闇に鳴き声が響く。

 一瞬、硬直したが、その鳴き声が愛らしかったため、恐怖心はすぐに消え去る。


「にゃあ……?」


 アリスはぽつりと、聞こえたままの鳴き声を口にする。


 声のする方へと近づいてみると、大木に登る一匹と、その足元にもう一匹。計二匹の黒猫がいる。

 兄弟なのだろうか。下にいる猫に向かって、上にいる猫がにゃあにゃあと鳴いている。猫の鳴き声から察するに、木の上に登ったはいいが降りられなくなっているのだろう。誰かの飼い猫なのか、首には真っ赤なリボンが巻かれている。


(待って、アリス。こんなことしている場合じゃないのよ)


 今は夜なのだ。はやく、城内へ戻らなくては。

 


 ——夜に子どもが外に出ると、悪霊デーモンがやってきて、食べられてしまうのよ。


 

 子どもの頃に母に言われた記憶がよみがえる。これは、悪戯っ子を脅すためでも、子どもを早く寝かせるための方便でもない。

 アリスは嫌というほど知っているのだ、それを、それなのに。


 猫の鳴き声がどんどん弱々しくなっていく。


「あああああ! もう!」


 アリスは身悶えながら、靴を脱ぐ。そしてあろうことか、ドレスのまま木を登っていく。


「ほら、降ろしてあげるから動かないで!」


 猫に人語が通じるかは不明だが、そう言ってアリスは木の上の猫を右手で捕える。


 ふしゃあああ!


 猫はアリスを威嚇し、逃げ出そうとする。


「あっ! こら!」


 アリスが怯むと、猫はアリスの手をするりと抜け出し、自分でぴょん、と飛び降りては華麗に着地を決める。

 状態を崩したアリスは木から落ちる。


「ひゃああああ!」


 どすん、と森に響く音。


 大した高さではなかったことと、パニエがクッションになったことで衝撃はさほどなかったが、前日の雨でぬかるんだ地面によりアリスの足やドレスはドロドロに汚れてしまう。


「あ……あーあ……」


 こんな状態で城に戻ったら何を言われるだろうか。誰に何といえばいいのかも解らない。セトにどんな顔をされるだろうか。いっその事、歩いて自分の家に帰ってしまおうか。家には、あいつらがいるかもしれないのに。


 アリスは座り込んだまま、呆然と呟く。


「何かもう……嫌だな……」


 アリスは神に嫌われている。

 アリスが妹を、見捨てたあの夜から。


 放心状態となったアリスの目に、ふと、先ほどの黒猫たちが映る。

 猫たちはてくてく歩くと、何かの足元で止まり、にゃあ、と鳴く。


 人だ。少なくとも、人の形をしている。



「おはよう、いい夜だな」



 その『人』はアリスに話しかけてくる。


「えっ? あっ……おは……こんばんは……?」


 何が何だか分からずに挨拶をするアリス。こんな夜の森で、この人は何をやっているのだろう、と自分のことを棚に上げてアリスは思う。


 二十代後半ぐらいの男性だろうか。平均的な騎士よりは少し瘦せ型だが、背は高く、アリスは男よりも頭一つ分以上小さい。全身を黒い外套がいとうで覆い、腰ぐらいまである長い髪もまた黒く、闇より黒いのではないかと思った。そしてその闇に光る蒼石のような瞳が印象的で、目が離せなくなる。


(かっこいいな……)


 第一印象はそれだ。だがすぐに男の羽織る外套に付いている紋章に気が付き、我に返る。


(ダリアの紋章! 王都騎士団ダリア隊の人だ!)


 アリスは咄嗟とっさに腰を低くして謝る。


「もっ、申し訳ありません! こんな暗い中、出歩いたりして……!」

「……何をしていた?」

「あ……うぇ……あの……探し物を……」


 急に頬が燃えるように赤くなる。夜に子どもが出歩いているだけでも一大事なのに、王城の森で、ドレスのまま、裸足で、ドロドロで、王都騎士に見つかってしまった。完全に不審者である。あまりに情けなくてアリスは泣きそうになる。


「探し物……これか?」


 そう言って黒騎士は懐から首飾りを取り出す。手にあるそれは、まさしくセトが投げ捨てたアリスの首飾りだ。


「それです!!」


 と、目を見開いて答える。

 アリスは黒騎士から手渡された首飾りを受け取ると、死の淵に救世主が現れたかのように安堵し、それを握りしめる。


「あっ……ありがとうございます! これ、大切な人から貰ったもので……本当に……」


 そう言って黒騎士を見ると、男は不思議そうな顔でアリスを眺めている。その視線に縮み上がるが、どこか蠱惑的こわくてきで、アリスの心臓はドキドキと高鳴る。


「指輪は?」


黒騎士はアリスにたずねる。


「はい?」

「指輪は貰ってないか? 昔に」

「貰って……ないです……」


 指輪とは何のことだろうか。アリスが大切にしているものは、この首飾り以外には思い当たらない。


「名は?」

「私ですか? ア、アリスです」

「そうか……人違いだったか……」


 黒騎士はくるりと身をひるがえし、背中越しにアリスに話しかける。


「娘」

「えっ? はい」

「夜中に出歩くのはよくないぞ」

「はっ、はい……そうですよね……」


 アリスは肩を落とす。


「夜中に子どもが外に出ると、悪霊デーモンがやってきて食べられてしまうからな——」


 そう言って黒騎士は少しだけ振り返る。蒼石色の双眸そうぼうが、妖しく輝く。


 人の目は、夜にこんなにも光るだろうか——


 まるで猫のような、もっと言うと、妖魔のようだとアリスは思う。


(あれ……?)


 ふと手元にある首飾りに視線を移す。


(おかしいな……あの時、確かにセトにチェーンを切られたと思ったのに、どこも壊れてない……?)


「あの……」


 アリスは黒騎士に問おうと顔を上げ、驚愕きょうがくする。

 先程まですぐそこにいたはずの騎士の姿がどこにもない。それどころか、騎士の足元をうろちょろしていた二匹の猫も姿を消している。


 暗い森だけがそこにある。静寂の中、アリスはぽかんと立ちつくす。


 仕方なく城の中に戻ろうとした、その刹那——



 ギャアアアアアアア!



 夜空に叫び声のようなものが響き渡る。


 その声はアリスの後ろ、十メートルも離れていない草むらから聞こえた。振り返ると、そこには想像を絶するような禍々しい姿があった。


 ——死体が、動いているのではないかと思った。


 影のような黒い触手が絡み合い、四つん這いの獣のような形をとっている。手脚には鋭い爪のようなものがついていて、引っ掻かれでもしたらまず助からないだろう。胸は肋骨がむき出しとなり、脈動する臓物のようなものが見える。体のあちこちに開いた穴からはドロドロとどす黒い血が流れ出ている。顔と思われる部分には大きな口だけがあり、目のようなものは見当たらない。何かを食べるためだけに存在している、そんな姿。



 悪霊デーモンだ——



 その化け物が掴みかかると同時に、アリスは全速力で逃げ出した。間一髪でそれをかわし、とにかく走りつづける。声も上げずに、息をするのも忘れて。


(ダメ、ダメ。城の中に入らないといけないのに、どんどん離れてる)


 アリスは生い茂る草木を掻き分け、どんどん森の奥懐へと入っていく。悪霊デーモンは低く呻きながら追ってくる。

 体力の限界を迎え、アリスは木の陰に隠れて座り込む。恐らく、あの悪霊デーモンには目がない。気配やにおいでアリスを追っているのだろう。悪霊デーモンは近くまで来てはいるが、すぐに見つかることはなかった。


 だが、それも時間の問題だ。


 悪霊デーモンは咆哮し、近くにある木を次々となぎ倒していく。いずれはアリスが隠れている場所を特定するであろう。


(私、ここで悪霊デーモンに喰われて、死の国へ行くんだ……どうせ死ぬなら、もっと劇的に死にたかったのに)


 もう逃げる力もない。アリスの人生はここで終わる。


 ——近頃は、何一ついいことなんてなかった。


 死にたい、消えたいと何度も思った。

 幸せな思い出が無いわけではない。というより、常に幸せだった。五年前までは。


(でも、もういいや)


 アリスは絶望の中、一つの希望を持つ。


(死の国へ行ったら、きっと、妹に会える)


 アリスは目を閉じ、微笑した。その時——



「なあ、ちょっといいか?」



 誰かに声を掛けられる。


 まさか。こんな状況でアリスに話しかけてくる者が存在するだろうか。

 恐る恐る声のする方を見ると、アリスよりも低い位置に、草木に紛れて伏せの姿勢でこちらを見上げる青年がいる。


 婚約式が始まる前、アリスの控室に窓から侵入してきた、白髪に赤い瞳の、美貌の変質者だ。


「あそこでお前を探してる悪霊デーモン、俺がどうにかしてやるからさ、お前も俺の頼みを聞いてくれない? やっぱりどうしても聖堂が開かないんだ。イヴも見つからないし。人間の協力が必要なんだと思う。うん」


 アリスは状況が理解できず、全く身動きができない。そんなアリスをいぶかしげに見て、白髪の青年は上体を起こし、アリスの顔の前で手をぶんぶんと振る。


「もしもーし?」


 只者ではない。この状況で平然としている。喜怒哀楽がないのだろうか。もしかすると、この人は悪霊デーモンに喰われないのだろうか。


 ふと、青年の揺れた白髪に月光が反射して、頭に光の輪っかがあるように見える。それが祭壇画さいだんがの、天使の姿と重なった。


「……天使?」


 アリスは思わず口にする。

 だが、青年は気にすることなく淡々と話し始める。


「お前が俺と契約してくれるなら、お前の願いを叶えてやることができるが……どうする? 俺は別にここでお前が悪霊デーモンに喰われても構わないんだけど」

「助けてくれるの……?」

「俺のことも助けてくれるなら。どう? 俺と契約する?」


 そうこうしている間にも悪霊デーモンはアリスを探して木々をなぎ倒し続ける。最早、アリスを腹に入れるまで止まらないのだろう。悪霊デーモンの叫び声と、血が流れ出るびちゃびちゃという音で、アリスは吐き気を催す。


「ねえ……助けてくれるならはやく……こっちに来るから……」


 しかし、こんな状況でも青年は自分の言いたいことだけを言う。


「お前、名前なんていうの?」


 まるで言葉を覚えたばかりの幼児のように、純粋な顔で。


「ア……アリス」

「じゃあアリスはさ、俺と助け合い、その命ある限り、真心を尽くすことを誓う?」


 何故、今、誓いの言葉のようなことを言い出すのだろうか。アリスにはこの青年の考えていることがさっぱり解らない。ただ、今この状況を変えるためには、答えるしかない。他の選択肢などないのだから。


「誓うっていったら助けてやるよ」


 青年は言う。悪霊デーモンの気配はどんどん近くなる。

 身投げする覚悟でアリスは言葉を発する。


「誓う!」


 アリスの返答を聞いて、青年はにやり、と笑う。まるで罠に引っかかった獲物を見るような、悪戯小僧の、笑顔。


「その誓い、受け取った」


 そう言うと、青年はアリスに顔を近づける。

 アリスは思わず飛び退きそうになったが、がしり、とあごを掴まれる。

 そしてそのまま、青年はアリスに唇を重ねる。


「んぅっ……! んー!」


 アリスは目の前が真っ白になる。

 青年はアリスを解放すると、よし、といって唇をぺろりと舐める。


 ほんの一瞬の出来事だったが、アリスは今までに、何が起きていたのかを忘れた。それほどまでに生まれて初めての、家族以外との接吻せっぷんは衝撃的だった。


 ついに悪霊デーモンがアリス達の隠れている木の幹をなぎ倒し、アリスたちの姿はあらわとなる。おぞましい咆哮を上げる悪霊デーモンに、アリスは悲鳴をあげ耳を塞ぐ。

 青年は飄々(ひょうひょう)とアリスの前に立ち、悪霊デーモンを見据える。

 悪霊デーモンは青年の気配に気が付いたのか、右腕を高く上げ、それを膨張させていく。


「アリス!」

「はっ、はひっ!」


 急に名前を呼ばれておののくアリス。


「お前の願いは?」

「え……?」

「お前の願いを言ってみろ」


 悪霊デーモンが青年へと腕を振り下ろすと同時に、アリスは叫ぶ。


「——私を助けて!」



 グシャッ——と、何かが潰れるような音がする。



 アリスの目の前に、悪霊デーモンの巨大な腕がずどん、と落ちてきて、どす黒い血がアリスのドレスに飛び散る。

 青年の腕は、悪霊デーモンの体を貫いている。


 ギャアアアアアアア!

 

 悪霊デーモンは断末魔の叫びを上げ、ドロドロと溶けていく。

 獣のような形をとっていた黒い触手は蒸気をあげて血へと変わり、白髪の青年へと降り注ぐ。


「ふう」


 白い頬を汚す血を拭いながら、青年は一息つく。アリスは、呆然ぼうぜんとその姿を眺める。


 青年は月を背に、アリスの方へと向き直る。白髪がキラキラと輝いて、この世のものとは思えないほど、綺麗だ。


「何者なの……?」

「んえ? さっきお前、言わなかった?」


 ——天使……?


「さあ、これでお前は『聖女セイント』となった」


 血まみれの青年は、邪悪な微笑みを浮かべて言った。


「死ぬまで一緒だな、アリス」


お読みいただきありがとうございます。


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