第15話 夜の獣 Ⅲ
アリスは教会の祭壇の裏で膝を抱えていた。そろそろ日が落ちる。教会内はやわらかな光に包まれていたが、明かりがついていないため、どんどん薄暗くなっていく。
窓の外にも、日が落ちるにつれて少しずつ暗くなっていく町並みが広がっている。普通の子どもならば家に戻る時間に、何故、こんなところにいるのだろうとアリスは思う。
伯母が家にいて、あいつと付き合っている限り、帰る場所がない。
逃げてもどうにもならない。襲われたという衝撃より、何もできなかった自分に苛立ちを感じる。一発ぐらい蹴飛ばしてやればよかったものを。
何もなかったことにして、これまで通りの生活を続けるべきなのだろうか。
可哀そうな子どもになりたくない。いつも綺麗なアリスでいたい。
「リリス……猊下……」
助けを呼ぶように呟く。その己の甘さにも嫌気がした。アリスは、この二人のことを、助けてあげられていないのに。
「……エクス」
続けて、名前を呼ぶ。
瞬間、教会の天井から一滴の水が落ちてくる。
地面に落ちた一滴の水はみるみるうちに増えていき、大きな水溜まりとなり、その中からエクスが現れる。
「呼んだ?」
アリスは驚愕した。呼べば来るなんて思ってもいなかった。
「エクス……?」
「こんなところで何してんの? そろそろ夜になるけど」
エクスはいつもの調子で話しかけてくる。明らかに様子のおかしいアリスを心配する感じはない。
それが、有難かった。恐らくこの天使は、他人の気持ちに理解を示すことがない。良くも悪くも幼い。怒りか安堵か自分でも解らないが、目頭が熱くなる。だが、こういう場面で泣きついてしまえるような女ではない。ただ、やり場のない感情をぶつける。
「……何で。何でお父さんとお母さんと、私とリリスの家なのに。何で……あんな汚いものが居座ってるのかな……」
エクスに言ったところでどうにもならないのに、一度口にしたら憎悪の念がどんどん増していく。
「なんであいつら生きてるの? 私は子どもだから、世話になってるから、何もできないから? 諦めて……我慢して……私が許さなきゃいけないの?」
拳を握り締め、震えながらアリスは言う。そんなアリスを見ながら、エクスは小首を傾げる。
「……なんでアリスが許すの?」
子どものように純粋な目で、アリスに疑問を投げる。
「家に鍵がかかってないからって、他人の家に入ったら悪い奴だろ? アリスがそこにいるからって、いじめたら悪い奴だろ」
アリスが何も言わないのを確認して、エクスは喋り続ける。
「お前、自分が思ってるほど、どうしようもない人間じゃないぞ? カッコいい学校に通ってるし、豆電球つけられるし、実は図太いし、変な缶詰を美味そうに食うし」
全く褒められている気がしない。だが——
「伯母さんとおっさんは、アリスのことを俺よりも知らないんじゃないか? 抗いたいなら抗えばいい。だってさ……」
美貌の天使は妖しげな笑みを浮かべる。
「アリス、今のお前、強いぞ」
瞬間、教会の扉が大きな音を立てて開く。
大柄の男が、こつこつと靴音を立てて入ってくる。
「アリスちゃん、無駄だよ」
声の主はミダス。アリスを追ってきたのだ。
「今の俺は獣と同じくらい鼻が利くんだ。アリスちゃんがどこに逃げてもたどり着けるよ」
これも悪霊の力なのだろうか。アリスは祭壇に姿を隠したまま、息を呑む。
「ああ……悪い子だね、アリスちゃん。逃げなかったら、殺さないであげようと思ったのに。俺に逆らう子は、許してはおけない」
ミダスは祭壇へと近づいてくる。すると、アリスの横にいたエクスが前へと出る。
「おい、おっさん」
「……? お前、誰だ?」
ミダスはエクスの存在に初めて気が付いたのか、驚いたような表情を見せる。
「俺が見えるようになってるってことは、もう限界だぞ」
エクスはミダスを真っ直ぐに見る。その様子をアリスはこっそりと窺う。
「おっさん。一生に一度聞けるかわからない、天使様の有難いお言葉だぞ。悪霊の力を使うのを今すぐやめろ。そうしないとお前、死ぬぞ」
ミダスは明らかに不機嫌な顔になり、右手の拳を握りしめる。
「だからあ……なんなんだよ……お前は」
そう言うと、ミダスの右手に黒い靄のようなものが集まりだし、ミダスの右手が変化していく。黒く、巨大になり、狼のような体毛と爪を有する形となる。
「俺とアリスちゃんの間に挟まる男を許さない!」
ミダスはエクスに向かって右手を振り上げ、爪で切り裂こうと近づいていく。エクスは傍にあった教会の長椅子を持ち上げ、ミダスの手に向かって振りかぶる。
バキィ、と音を立てて、教会の椅子が砕ける。
「もっかい言うぞ。今すぐ悪霊の力を使うのをやめろ。魂に負担がかかる」
「負担? そんなものを恐れる人間が悪霊と契約すると思うのか!?」
ミダスは片手で砕けた椅子の破片を掴み、エクスに向かって投げ付ける。エクスはそれをひらりと躱し、破片はそのまま教会の石壁に当たって木っ端微塵になる。
ものすごい威力に、アリスは戦慄する。アリスだったら身体に穴が空いていただろう。だが、エクスは攻撃を躱すだけで、自分から仕掛ける様子はない。 一応、人間相手だからなのだろうか。天使は悪霊を狩るものであって、人間は傷つけてはならないのかもしれない。
ミダスは更に、左腕も変形させる。両腕が黒い獣のような、異形の姿となる。両手を組み、斧のようにエクスの頭を目がけて振り下ろすが、エクスには当たらない。
エクスの美しい顔は氷のように冷ややかで、ミダスを静かに見据える。
「しょうがないなあ」
エクスはそう言って、地面を蹴る。宙に浮かんだエクスに向かって、ミダスは爪を立てる。
切り裂かれたエクスは、ぱしゃん、と音を立てて液体へと変わり、姿を消す。エクスを見失ったミダスは辺りを見回す。そうしている間に、ミダスの足元には直径二メートルほどの水溜まりができていく。
水溜まりの中から手が出てきて、ミダスの足を捕らえる。
「ぐわあっ!」
ミダスの足は水面へと引きずりこまれる。やがて、水は蒸発し、足を地面に埋めた状態となる。足を動かそうにも、教会の床にしっかりと突き刺さっていて、身動きが取れない。
数メートルほどの距離を取ってミダスの前にふわりとエクスが姿を現す。
「ほら、攻撃をやめろ」
足を取られたミダスは黙って唇を噛んでいる。
人間と天使では勝負にならないのだろうか。エクスはアリスがいなくても十分強く思えた。
エクスはミダスを諭すように言う。
「おっさん。もう二度と悪霊の力を使うな。これ以上使ったら魂が壊れる。壊れた魂は死の国へすらいけない。一生、空虚で苦しみ続けることになるぞ。いいのか……?」
それを聞いたミダスは、口の端をゆがめて笑った。
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