第3話 深淵を覗く時 Ⅱ
「じゃあね~リリスさん! いつもありがとう! また来てね~!」
「ええ、ありがとう、クロエ」
チリン、と、小気味よい音が鳴り、店を後にする。
王都の大通りにある肉屋で生ハムを購入し、リリスは辺りを見渡す。
「リリー」
背後から、果物屋の袋を手に提げた黒髪の美丈夫が歩いてくる。
「アーク。買い物終わったわよ。そっちは?」
「ああ、俺も終わった。帰ろうか」
「ええ」
差し出された手を取り、リリスは歩き出す。
「ねえ、アーク。帰るまでの間、面白い話をしてよ」
「そんなに急に面白い話があるものか」
「えー、じゃあ、しりとりしましょ。はい、りんご」
「ごま」
「マッチ」
「血まみれ」
「れ……練乳」
「うっ血」
「ちょっと、なんで血ばっかりなのよ」
ふふ、と笑うアークの背を叩き、リリスもけらけらと笑う。
しかし、次の瞬間——
アークの纏う雰囲気が、ぴりり、と張り詰める。
「……どうかした?」
「いや、大したことではないのだが……」
「何よ、気になるじゃない。言いなさいよ」
「……誰かが、リリーの家に張ってある結界の中に入ってきた」
「え!? 何それ!?」
リリスの家は、アークの術によって地上から隔離されている。そのため、ここ二年でリリスの家に辿り着いたものは誰一人としていない。
まさか、破ることができるものがこの地に存在するなんて——信じられない。
「ま、まさか……ヤバめの悪霊が侵入してきた?」
「いや、人間だな」
「アークの術を解ける人間なんかいるの!?」
「まあ、一人だけ……思い当たるな」
「だ、誰なの……?」
リリスは息を呑み、不安げな表情でアークを見る。
「まあ、とりあえず帰ってみるか。急ぐぞ、リリー」
「ええ……!」
人目のつかないところまで行き、リリスはアークに抱き抱えられ、その場から姿を消した。
* * *
リリスとアークは家の前まで辿り着き、周囲を注意深く見る。
「特に、外の様子に変わったところはないわね?」
「そうだな。エクスが家に入れたかもしれん……行くぞ」
アリスはごくりと生唾を飲み、玄関の扉に手を掛ける。
押し開けた先に見たものは——その場に座って震える、ネコの姿。
「……ネコちゃん?」
「ああああ……ご主人、リリス……!」
ネコはぱたぱたとこちらに寄り、足元に縋りつく。
「ネコちゃん、どうしたの? クロ、何か知ってる?」
柱の陰からこちらの様子を見るクロに目線を移し、リリスは問う。
「……さっきこの家に、知らない人が来た」
「知らない人……? どんな人?」
「肩ぐらいの金髪で、青い目の……女みたいな男の人」
「……え?」
リリスの記憶の中、そのような容姿をした人物といえば——セトしかいない。
(まさか、セトがここを見つけて……?)
怪訝な顔をしたままアークを見ると、アーク無表情で口にする。
「まあな。俺の術を破る力を持つ人間など、姫の他にはいないだろうよ」
「……で? セトは何処に?」
「えっと、それが……」
クロは少し言い淀んだ後、続ける。
「……勝手に扉を開けて出ていこうとしたのか、魔窟の下に落ちていった」
「え……?」
クロの言葉を聞き、リリスは戦慄する。
魔窟の真ん中に広がる、深淵。そこにセトが、落ちたというのだろうか?
「アーク、あそこに落ちると、どうなるの……!?」
「……死の国に行く」
「たっ、助けなきゃ! セトは生きてるのに、死の国に行くなんて!」
リリスが狼狽えると、アークが冷静な口調で告げる。
「リリー、諦めろ」
「え……?」
「俺でも、死の国に一度入ったら、無事に帰って来れる保証はない。姫ひとりのためにそんな危険なこと、俺もしたくないし、お前にもさせたくない。奴は運が悪かった。それだけだ」
「そんな……!」
「リリーが姫のために、そこまでしてやる必要はない。エクスやクロやネコを置いて、死の国で永遠に彷徨うなんて嫌だろう?」
「エクス……あれ? そういえば、エクスは?」
きょろきょろと見渡すと、足元にいたネコが気まずそうな顔をして口にする。
「エクスも……一緒に落ちたであります!」
リリスとアークは頭を抱え——しばらくその場から動けなかった。
* * *
「あの、本当に行くの? ここ、落ちるの……?」
クロが恐る恐る、リリスに問う。
「だって、仕方ないじゃない。エクスがいるんじゃ、助けに行かないわけには……!」
リリスは深淵を見つめる。既に足が震えていて、気を抜いたらその場に座り込みそうだ。
「ネコちゃんは悪くないであります……ネコちゃんは悪くないであります……」
ネコが半泣きになりながら、クロの傍で震える。
「……ああ、嫌だな。こわ……」
ぽつりと、アークが呟く。
「ちょっ!? やめてよ! アークが怖いとか言わないでよ! アークが怖いとか言ったら、私なんて超怖いんだけど!?」
アリスは涙ぐみながら、アークの腕を掴む。
するとアークがリリスを引き寄せ——そのまま抱きしめる。
「……何よ、急に」
アリスは顔を赤くし、アークの腕の中で大人しくなる。
「……壊れてくれるなよ、リリー」
そう告げると、アークは地面を蹴り、後ろ向きに深淵へと落ちていく。
「いやああああああああ!」
リリスの叫び声が、深淵に響き渡る。
深く、深く、落ちていく。
辿り着く先には——どんなことが待ち受けているのか。
死の国で巻き起こる、出会いと別れ。
この時はまだ、誰も知る由もない。
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