第2話 深淵を覗く時 Ⅰ
自分の心臓の音が、耳に響く。
セトは拳を握り締めながら、扉の向こう側の反応を待つ。
出てくれ、出てくれ——と、願うこと数秒。
扉の鍵が、ガチャリ、と鳴り、目の前に白髪の麗人が現れる。
「……誰だ?」
深紅の目を眇め、エクスが声を上げる。
「と、突然来てすまない。エクス君、俺のことを覚えているか……?」
「……解らない。お前、誰?」
「え……」
エクスは不審者に向けるような目線を、セトに向ける。
(俺を、覚えてないのか……? 確かに、会ったのは二回ほどだし、子どもにとって二年は長い。忘れていても仕方ないか……?)
セトは気を取り直し、こほん、と咳払いをする。
「俺は、アリスの知り合いの、セトだ。アリスに話が合って来たんだが……彼女は、ここに住んでいるのか?」
「アリス……? リリスじゃなくて?」
「あ、今は、リリス、と名乗っているのか?」
「よく解んないけど……リリスなら住んでるぞ。今いないけど」
「そ、そうなのか……」
アリス——いや、リリスは確かに、ここに住んでいるようだ。
それが確認できただけで、今日は良しとしよう。
「じゃあ、リリスさんがいる日に、また出直してくるよ」
「いや、もうちょっとで帰って来るぞ。家に入って待ってればいいじゃん?」
そう言って、エクスは家の扉を大きく開く。
「ほら、入れよ」
「え……じゃあ、お邪魔します……?」
家に入ってみると、リリスの家は外装だけでなく、中も全く同じだった。
壁に残る傷や、柱の色合い。とてもじゃないが、ここ二年で建てられた家のようには見えない。
不思議に思ってあちらこちらを見ていると、エクスに声を掛けられる。
「お茶、何飲む? マコのばあちゃん家のお茶だから、美味いぞ。特に果実茶が」
「あ、ああ……じゃあ、それで」
キッチンに案内され、エクスの淹れてくれたお茶を一口飲む。
甘く、鼻に抜ける黒房スグリの香りが心地良く、少しだけ落ち着いた気持ちになる。
エクスはセトの向かい側の席に座り、セトと同じ、果実茶を飲んでいる。
暫く沈黙が続き——セトは口を開く。
「あの、エクス君。本当に俺の事、覚えてないか?」
「ああ、覚えてないな。何か、アークが言ってた。ヨウジキケンボー? っていうやつらしい。お前も、昔のことって覚えてないだろ?」
「え、まあ、そうだけど……」
幼児期健忘、というのは三歳以下に起こるものではないのだろうか、と思いつつ、深く突っ込むのも野暮な気がして、セトは黙る。
時計の針が、カチカチと音を立てる。その音を耳にしながら、セトの不安は増していく。
(リリスに会って……何を話そうか。婚約については……今更か。何で、ずっと姉の名を名乗っていたのか……いや、それを聞いて、俺はどうするんだ?)
リリスはもう、自分のことなんかどうでもいいのではないだろうか。過去に囚われているのはセトだけで、今更出て行って、何になるのだろうか。定職にもつけていない、何者にもなれていないセトを見て、彼女はどう思うだろうか。
未練がましくて、情けない奴だと思われないだろうか——
「や、やっぱり。俺、帰るわ。エクス君、押しかけてすまなかった。俺のことはリリスに伝えなくて構わないから! じゃあ!」
セトは立ち上がり、玄関の扉へと向かう。
「おい! 待て!」
「すまない、邪魔した!」
「そうじゃない、違う!」
エクスが立ち上がり、声を張り上げて言う。
「扉の外に出ちゃ駄目だ! 落ちるぞ!」
「え……?」
エクスの声に足を止めたが——遅かった。
緑の多い、落ち着いた細道があるはずだった外の景色が、変わっている。
目の前に広がっていたのは、深い闇。
何故だかセトは断崖にいて、ずるり、と足元が滑る。
「うわあああああっ!?」
深淵に落ちていきそうになったところ、エクスに右手を掴まれる。
訳の解らないまま、宙に浮いた状態になるセト。
「馬鹿! お前、この家の扉は、何も念じないで開けると魔窟に繋がってるんだ!」
「何だそれ!? 怖い! 助けてくれ!」
「手を離すなよ、えっと……セトちん!」
エクスが力を込め、セトを引き上げようとした瞬間——
「ご主人~? 帰ってきたでありますか~?」
居間で昼寝をしていたネコが、こちらに向かって歩いてくる。
目を擦り、まだ寝ぼけている様子で——
「あっ」
ネコは自分自身の足に躓き、エクスの背中に、ごん、と頭突きをする。
体勢を崩したエクスは前にのめり、そのままセトと一緒に深淵へと落ちていく。
「ぎゃああああああああ!」
セトとエクスの悲鳴が響き渡り、そして消えていく。
「お……おおおお……」
落ちていく二人を見守りながら、ネコはただ、震えた。
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