第13話 夜の獣 Ⅰ
朝起きると、身体の痛みは普通の筋肉痛ぐらいになっていた。
命の危険を感じなくなって一安心するアリス。本日は安息日のため、士官学校はない。夜は何が起きるかは解らないけれど、日中は久しぶりにのんびりと過ごそう。
アリスはゆっくりと寝間着を脱ぐ。お気に入りのエプロンドレスを手に取り、身に付けようとした瞬間——
「おはようアリス!」
「ぎゃああああ!」
大声を出し、エクスに服を投げつける。
「着替え中に部屋に入らない!」
「気にすんなよ。俺、赤ちゃんだし」
「都合よく赤ちゃんぶらないの!」
確かに、あの男と違ってエクスからはいやらしい目線を全く感じないが、美しい青年の姿をしたものに肌を見られて動揺するなというのは無理だ。エクスが来てからというもの、朝から慌ただしい。アリスは嘆息し、冷静になってからエクスに聞く。
「……伯母様たち、まだいる?」
「ううん。出ていったぞ」
「そう……」
* * *
薄暗いキッチンで一人、食事をとる。塩漬けの肉の缶詰を開け、丸いパンを齧る。
そんなアリスの食事姿を、エクスはまじまじと見ている。
「それ、なんの肉……?」
「え? 知らないけど……なんかのお肉じゃない?」
「美味しいの?」
「……よくわかんないけど食べられるわよ? 食べる?」
「いや、いい……」
エクスは得体の知れないものを食うアリスを訝しげに見る。
「天使って、ご飯食べないの?」
「食べる必要はないけど、人間に誘われた場合は食べてもいいことにはなっている」
「へえ……?」
とりあえず、エクスに構わず食事を続ける。
エクスはアリスから視線を逸らさずに、別の話題を切り出す。
「アリスはさ、家族と仲良くないの?」
食事の手を、一瞬止める。だが、すぐに再開させる。
「私の家族はもう誰もいないの。伯母様は私が大人になるまでの保護者として、嫌々一緒に暮らしているだけ」
「一緒にいたおっさんは?」
「三か月前ぐらいからかな……よく家に来るようになった、伯母様と付き合ってる人。私とは無関係」
「俺、思うんだけど。あのおっさん、やばくないか?」
「……そう思う?」
エクスの『やばい』が何を差しているのか解らないが、彼のアリスに対する只ならぬ雰囲気はエクスでも感じるのだろうか。
「うん。多分、悪霊と契約してる」
「……悪霊と……契約?」
腑に落ちない言葉に困惑する。契約、とは何のことなのだろうか。
「あんな子どもを食べるだけの化け物と何を契約するの?」
「アリスが今まで戦ってきたやつは、悪霊じゃなくて狂悪霊っていうんだ。俺が言っているのは本物の悪霊のこと」
「どう違うの?」
「無理もない。本物の悪霊は警戒心が強く、滅多に人前に姿を現さないからな」
エクスはテーブルの上で細く長い指をくるくると回しながら説明する。
「選ばれし地の『浮遊霊』のなかで、生前、恨みや苦しみを多く持っていたものが集まると『悪霊』となり、意志を持って動くようになるのは知っているよな?」
アリスは頷く。それを確認してエクスは続ける。
「悪霊は、心に闇を抱える人間の前に現れ、自らの霊を使って人間の願いを叶える代わりに、人間の霊を奪うんだ。悪霊は、動物や昆虫の姿をしている物が多い。そして、霊を奪われた人間は『魔女』と呼ばれるようになる」
魔女。まさか、悪霊と契約している人間がいるなんて。
「霊を奪われて魔女になった人間はどうなるの?」
「肉体と魂だけの存在となる。そして、死後は契約した悪霊に肉体も奪われる。残った魂は死の国行きさ」
死の国——と聞いてアリスは身震いする。霊を失った魂が行く、苦行の場所。正直、そんなものが本当に存在しているのか半信半疑であった。だが、それが天使の口から語られるとなると、信じざるを得ない。
「それとな、悪霊と契約したものは願いが叶うのと同時に、契約した悪霊の力を一部使えるようになるんだ」
エクスは人形のように整った顔をしかめる。
「だが、それが問題だ」
「何で?」
「本人の魂の器以上に、人間が悪霊の力を使うと魂が壊れてしまう」
「壊れるとどうなるの?」
「霊も魂も入っていない肉体が残る。その肉体にたくさんの浮遊霊が集まって、制御不能の化け物になる」
「それって……」
「ああ。それが狂悪霊ってこと」
アリスは戦慄した。それはつまり——
「私が今まで戦ってたのって、全部元は人間だったってこと?」
「ああそうだな。悪霊と契約した、人間だったものだな」
エクスは宝石のような双眸を細めて邪悪に笑う。
「背信した人間の、哀れな末路さ」
ドクン、と心臓が鳴る。衝撃の事実を飲み込めた訳ではないが——アリスには確認したいことが一つある。
「……正しく生きていても、狂悪霊に食べられた子どもは、霊と肉体を同時に失うから、魂が死の国へ行くっていうのは、本当なの?」
「ああ、本当だ」
そうなると、やはりリリスは——死の国にいる。
「……食べられた子どもには何の罪もないのに、死の国に堕ちたら、主はもう助けてはくれないの?」
エクスは、さあな、といって手のひらを上に向ける。
「主のことは主にしか解らない。俺が言えるのは、今のお前ならば理不尽に死の国へ堕ちる不幸な魂を減らすことができるってことだけだ」
エクスはからりと言う。アリスは眉間を寄せて、表情を硬くする。
「それでだ、アリス」
エクスはアリスを見つめ、真面目な顔つきをする。真剣な顔をしたエクスは直視ができない。まだ彼の綺麗な顔に慣れず、ドキドキしてしまう。
「アリスの家にくるおっさん、多分、短期的に悪霊から得た力を使いまくっている。もう魂が壊れかかっている臭いがする。放っておけば狂悪霊になるぞ」
「ええっ!? それで私にどうしろと?」
「とりあえず悪霊の力を使うのを止めろと言うしかないな」
「私の言うことなんて聞くわけないじゃない! それに話したくもないし……」
「うーん……だからといってみすみす狂悪霊を出してしまうのもなあ……」
困惑するアリスをよそに、エクスは立ち上がるとすたすたと玄関の扉の方へと向かう。
「ま、何か考えておいてくれ。俺は王都内を偵察に行ってくるからさ」
「え、ちょっと……」
ばたん、と扉が鳴り、エクスは出て行ってしまう。相変わらず自由闊達というか、何を考えているのか解らない。
取り残されたアリスは大きく溜息を吐き——頭を抱えた。
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