第128話 痛み
「エル! 危ないよ!」
「大丈夫だって、もう少しだから!」
トムとリアが、木の下で心配そうにこちらを見ている。
エルは木の枝に跨りながら、枝の先で、降りられなくなって震えている子猫を見据える。
「ほら、おいで。怖くないから」
手を伸ばし、子猫の身体を掴む。
ほっと息をついたのも束の間、バランスを崩し、身体が大きく傾く。
「うわあっ!」
エルは木から落ち、そのまま茂みの中に身体を埋める。
「きゃあああ!」
「エル! 大丈夫か!」
トムとリアが駆け寄り、エルを心配する。
「いてて……大丈夫、ちゃんと受け身を取ったから。それより、ほら、子猫。降りられてよかったな!」
エルの腕の中で、ミイ、と鳴く子猫を見て、三人は顔を綻ばせる。
「エル! こら、エル!」
地面を踏みしめながら現れたのは、金色の髪に紫色の瞳をした、美しい女。
「あ、ナジャさんだ!」
「ママ!」
エルが顔を上げると、ナジャはエルの額を小突く。
「まーた、悪いことしてたんでしょ! こんなに服をボロボロにして!」
「悪いことなんかしてないよ! 子猫を助けてたんだ!」
「本当?」
「本当だよ、ほら!」
エルは子猫をナジャに見せ、したり顔をする。
「……そうねえ。じゃあ、子猫に免じて、許してあげる」
「やったね……あっ、痛!」
右手の甲に、ちくりとした痛みを感じる。
「どうしたの、エル。あら、手が切れてるじゃない」
ナジャはエルの手を取り、傷口に手を添える。
「痛いの痛いの……どこかにいっちゃえ!」
◇ ◆ ◇
「リリー!」
アークに声を掛けられ、我に返る。
「あ……私……」
「しっかりしろ。俺が間に入らなければ、斬られてるところだったぞ」
アークに抱き抱えられ、サマエルと距離を取るアリス。
辺りを見渡すと、身体を真っ二つに裂かれた天使たちが転がっている。
「ごめん、私……またアークに助けられた……」
「……! リリー! 離れろ!」
アークに押し退けられた瞬間——アダムがアークに飛び掛かる。
「アーク!」
「こいつ……何度裂いても、再生するんだ……」
アダムの天使武器を右手で受けながら、アークが苦笑する。
「ふふ……苦戦しているようだね。黄昏も人間の身体じゃあ、大したことないんだね?」
くすくすと笑いながら、サマエルが続ける。
「兄上と天使たちには、神道術で生成した見えない糸を伝って、俺の力を流し込んでいるからね。傷を受けても、時間を戻す術で……元通りってわけ」
「……ご丁寧にどうも!」
アークとアダムの激しい攻防を背に、リリスはもう一度サマエルに向き直る。
「……エル、そんなに力を使って、大丈夫なの?」
「……俺の心配をしてくれるの? 優しいねえ、リリーは。でも、そんな場合じゃないと思うよ? ほら、空の色が、どんどん変わってきた。鉄槌は……もうすぐだ」
サマエルが、東の空を指し示す。
黄金色の空の色が、赤く染まってきている。
「ああ、すごいね! 世界の終わりが近づいている! そろそろ、全てが終わる!」
サマエルは恍惚とした表情を浮かべ、口にする。
「ママのいない世界なんて、無くなっちゃえ!」
「くそっ……!」
リリスは焦り、サマエルに向かって駆ける。
「だからあ、俺には兄上の操る浮遊霊がついてるから、攻撃は届かないよ!」
黒い防壁が立ち塞がり、リリスの視界を奪う。
(どうしたらいいの……! アダム殿下を斬っても、エルの術で再生するし、アダム殿下を倒さないと、エルを斬れない!)
そうこうしている間に——アークが斬り伏せた天使たちが、身体を再生して立ち上がる。
「さあ、リリー。防いでごらん!」
二体の天使が、素早くリリスへと迫る。
(念じろ! 天使武器は、所有者の願いを受けて、強くなる! 私は歌えない。だから……踊るしかない!)
リリスは右手を振り上げ、華麗に剣を回転させる。
瞬間、剣が光を帯び——鞭のように長く伸びる。
「これなら、二体同時に斬れる!」
リリスは鞭状の刃を振り回し、左右から迫る天使を斬り裂く。
刀をしならせ、再びサマエルへと斬りかかるが——防壁を突破することはできない。
「強いね、リリー。そして、綺麗だ。でもね、もうそろそろ終わりにしよう……!」
サマエルが両手を掲げる。
リリスの前に突風が起こり、身体が吹き飛ばされる。
「うう……わああああっ!?」]
城の屋根の上から、落下しそうになるリリス。
「リリー!」
アダムの左腕を切り落とし、アークはリリスの元へと駆ける。
アークの指し伸べる手を掴み——何とか窮地を脱する。
「はあっ……はあっ……アーク、ありがとう……」
「礼は後でいい。それより、だ。リリー。これじゃあキリがない」
「ええ……」
目の前で、傷を負ったアダムと天使が再生を始めている。
「さあ、もう間もなく鉄槌だ。無駄な足掻きはやめて、リリーも黄昏も、一緒にこの世の終わりを祝おう!」
狂ったように笑いながら、サマエルが身体をくねらせる。
「並の術師じゃないな……奴は」
アークが眉を顰め、口にする。
「エルは、そんなにすごいの?」
「ああ。何が奴を、そこまで強くしたんだろうな。奴は、王子と天使だけでなく、自分自身にも大量に術をかけている。恐らく……術を解いたら、最早まともに動くことも敵わないような身体なのだろう。何種類もの術が、強く絡み合っている。王子や天使の死体と繋がっている術を解除しようにも……複雑すぎて、上手くいかん」
「アークが解除できない術って……どうしたらいいの?」
「奴が、自分にかけた最初の術。それがどんな術か解れば、解除できるんだがな……最初にかけた術を解けば、連鎖的に他の術も解ける。だが、術の種類は、この世に何万と存在する。それを当てることなど、不可能だろう」
サマエルが、自分自身に、かけた術——
リリスははっとし、アークに目線を向ける。
「エルが、一番最初に自分にかけた術を解けばいいの?」
「そうだが……心当たり、あるのか?」
「解らない……けど、もしかしたらってのは、ある」
「……試す価値は、ありそうだな」
アークは一歩前に出て、リリスに向かって言う。
「作戦はこうだ。まず、リリーが奴に向かって攻撃を仕掛ける。防壁が現れたところで、俺が王子を斬る。王子が倒れれば、僅かな時間だが、防壁が無効化されるハズだ。そこをすかさず、リリーが、術の解除をするんだ……できるか?」
「迷っている暇は……ないわよね」
赤く染まりゆく空を見上げ、リリスは苦笑する。
「よし、では、行くぞ。リリー」
「ええ……!」
リリスとアークは左右に分かれ、それぞれ、アダムとサマエルへと向かう。
「何? どんな作戦なのかな? まあ、何をしても無駄だけどね!」
サマエルは器用に指を動かし、二体の天使を操る。
「邪魔を……するな!」
リリスは剣を自在に操り、迫りくる天使たちを斬る。
「はああっ!」
地面を蹴り、サマエルに斬りかかるリリス。
「何度やっても、同じだ!」
黒い靄が防壁となり、リリスの前に現れる。
リリスは剣で防壁を斬り付ける。強い力で押し返してくる防壁に耐え、刃を向け続ける。
「アーク! 今!」
リリスは叫ぶ。
アークは不敵に笑い、アダムへと構える。
「悪いな。言葉を失い、人間をやめてまで奴を守りたかった、お前の気持ちはなんとなく解る。だが……俺は、この地を終わらせるわけにはいかないんだ」
「…………!」
「さらばだ、王子」
飛び掛かるアダムの黒い半身を、アークの手刀が引き裂く。
瞬間——防壁がさらさらと崩れ、サマエルの姿が露わになる。
「兄上……?」
僅かに動揺を見せるサマエルへと、リリスは走り込む。
「エル……!」
涙で、視界が滲む中。
リリスはサマエルに向かって、剣を振りかぶる。
——エルが、自分にかけた、最初の術。
きっと、この術は、彼にとって大切な思い出だったと思う。
幼い頃の思い出を、立ち上がるための呪いに変えて。
ずっと、身を裂くような痛みに、耐えてきたんだよね。
痛いの痛いの、
どこかにいっちゃえ——
「……あれ?」
刃を受けたはずなのに、何処も切れてないことを疑問に思ったのか、サマエルがぱちくりと瞬きをする。
「リリー、今、何した? あれ?」
サマエルの操っていた天使の身体が、水になって溶けていく。
アークに切り裂かれたアダムも立ち上がることなく、地に伏せている。
「あれ、もしかして、術が解けちゃった……? リリーに、解かれた? 嘘……うっ、ぐっ……!」
瞬間、サマエルが大きく咳き込む。
口から血の塊を吐いて、膝を突く。
「うう……苦し、い、痛い……あに……うえっ……助け……!」
涙を流し、苦しむサマエルの額にそっと手を置き、リリスは念じる。
かつて、サマエルが、リリスにかけてくれた術を——今度はリリスが、サマエルに。
「あ……」
サマエルの呼吸が、正常になる。
驚いたようにこちらを見上げるサマエルに、リリスは微笑む。
「ああ、リリー。痛みを消す術を、かけてくれたんだね。というか……もしかしなくても、俺、負けた?」
「うん。私の、勝ちだね」
「ふふ…そうか……でも、手遅れみたいだね。もう、鉄槌の準備はできたみたいだよ。ほら。王都の中心に、光の玉が見えるだろう……あの中には、天使がいる。この地の全てを滅ぼすまで……光の矢を、放ち続ける……」
「…………」
「あーあ……この地が滅ぶ瞬間を、見たかったんだけどな。どうやら、もう、駄目みたいだ。リリー、こんなことしといて、許してもらえないかもしれないけどさ……最後に俺の、お願いを聞いて欲しい」
「……何?」
「君がかけてくれた、術の効果がなくなる前に……俺にトドメを、刺して欲しい」
サマエルは、天使武器を握るリリスの右腕を掴み、自分の首筋に当てる。
「また、痛い思いをするのは、嫌だからね。お願い、リリー」
「…………」
震える手で剣を握り締め、リリスは笑顔を作る。
「……わかった」
サマエルの首に剣を向け、大きく振りかぶる。
目を閉じ、かつて愛した人の命を——自らの手で、終わらせる。
手に、刃が肉に食い込む感触が、伝わる。
目を開けると、そこには——
「アダム……殿下……?」
サマエルとリリスの間に、半身を失った状態の、アダムの姿がある。
刃は肩に突き刺さり、アダムは生身の右腕でサマエルを抱きしめ——その場で、息絶えている。
「嘘だろ……何であの状態で、動くんだ?」
つい先ほどまで、倒れるアダムを目の前にしていたアークが絶句する。
「ええ……何? 兄上は、こんな姿になっても、約束を……守ろうとしてくれたの?」
サマエルが、覇気のない顔で笑う。
「もうこれ以上、誰にもお前を傷つけさせないって……こんな時でも? 馬鹿なんじゃないの、こいつ」
サマエルは深く息を吸い、うわごとのように呟く。
「でも、ちょっと、嬉しい」
サマエルはアダムを抱きしめ、幸せそうに微笑む。
「ごめんけど、俺。全然、後悔も反省もしてないから。だってさ、ただベットの上で死ぬより、兄上の腕に抱かれて、恋した女の子に看取られて死ぬ方が……」
紫水晶の瞳が揺らぎ、そして、閉じられる。
「絶対に、劇的だ」
その言葉を最期に、サマエルは動かなくなる。
穏やかに眠るその顔は——どんな彼の姿よりも、美しかった。
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