第126話 彼の名は
神暦一六九三年、夏。
もうすぐ二十一歳を迎えるエルは、いつも通り、城を抜け出して暗黒街を目指していた。
(今日は……王都に、天使が多いな)
空を見上げると、忙しそうに飛び回る天使が一人。城を抜け出す直前にも、遠くを飛んでいるのを見かけた所だ。
——こうやって天使が見えるようになったのは、一年前ぐらいからだ。
死が近づいているからなのか、術を使いすぎて人間性を失ってしまったからかなのかは不明だが——とにかく、天使は思ったよりもたくさんいて、頻繁に城の聖堂に出入りしているということ知った。
(ああ、今日は城を早く出すぎてしまった……テレサたちとの約束の時間までまだある。久しぶりに、暗黒街の店でも見て回ろうか)
小路に入り、あまり人のいない店を、ただぼんやりと見つめる。
すると、急に押し寄せてくる——不安感。
今、自分の立っている場所が急に知らない場所のように思えてきて、逃げ出したい気持ちに駆られる。
胃の辺りが重たくなってきて、だんだんと呼吸が苦しくなってくる。
「……けほっ、けほっ」
咳が止まらなくなり、目の前が霞んでいく。
(まずい、このままだと……倒れる)
エルは建物の隙間に隠れ、なんとか呼吸を落ち着けようと必死になる。
だが、意識すればするほど、苦しさが増していく。
(俺の身体は……もう駄目なのだろうか。このまま、何もできずに、死んでいくだけなのだろうか)
アダムは『必ず、ここから出してやる』と言ってくれた。けれども、それは一体、何時なのだろうか。
待っていても、何も変わらないのではないのではないか——
(俺は……俺は、何がしたいんだろうか)
こうやって、一時の安らぎを求めて、彷徨うだけでいいのだろうか?
後先考えず、母親の仇である、ベアトリーチェを殺すべきだろうか?
(違う。そうじゃない。俺は、もっと……)
息を静かに吐き、目を瞑った矢先——
「こんな世界、終わってしまえばいいのに」
耳に響く、少女の嘆き。
——その言葉を聞いた瞬間。目の前に、光が差したように感じた。
ああ、そうだ。
何で思いつかなかったんだろう。
(そうだよ……終わってしまえば、いいんだ)
エルは微笑み、ふらふらと歩み出る。
蹲る少女の前に立ち、声を掛けた。
——彼女に声を掛けたのは、ほんの、気まぐれだった。
彼女は何で、世界の終わりを望んだのか。それを知りたかったから。
手を取り——いろいろと、世話を焼いてみた。
そうしたら、思ったよりも、すごく喜んでくれたから。
正直、チョロい、と思った。
悪い気分ではなかったから、俺の身体がまだ自由に動く、あとわずかの期間の暇つぶしになってもらおうと思った。
一緒に子どもに踊りを教えたり、他愛のない話をしたりした。
楽しそうな彼女を見ているうちに、可愛い、と思うようになっていた。
彼女が喜ぶことを考えたりするのは、楽しかった。
好き——と言われると、よく解らない。
ただ、子どもなりに、俺を真っ直ぐに見つめる瞳が——強く、美しかったママの、それと重なった。
どうしようもなくなるほど、彼女に依存する前に。
俺は、彼女の手を——自ら離した。
彼女と別れてから、俺はこの地を滅ぼす計画を始めた。
俺には、心当たりがあった。
子どもの頃に読まされた、先代イヴの手記に記載されていた内容。
天使には、契約者の願いを叶えることが出来る能力があるということ。
そして、神は、初代イヴが亡くなって、天上へと姿を消すにあたり、『ある権利』を人に与えたということ。
その、『ある権利』とは——この地を、終わらせるという権利だ。
莫大な霊素を必要とするらしいが、天使に願えば、叶えてくれないことも無いらしい。
一人の聖女が集めるには、不可能な量の霊素。つまり、これは全ての聖女と、その長であるイヴの同意なしには成り立たないような願い。
全てを無に還す、鉄槌。
俺はこれを使って、この地を滅ぼすことを決めた。
* * *
「これで……よし、と」
マラキア城の聖堂の地面に陣を描き、エルは一息つく。
(これは……束縛の神道術。ここに降り立ったものを捕らえ、動けなくする術だ。天使がひっかかってくれるかは微妙だけど……とにかく、試してみよう)
エルは祭壇の後ろに隠れると、静かに時を待つ。
(そろそろ、正午だ。天使の行動は調査済み。必ず……現れる!)
エルは息を止め、聖堂の中心を見つめる。
瞬間——空間にぽつりと水滴が落ち、湧き出るように広がっていく。
水は人の形を作り、長い白髪に、白い肌の、美しい天使が姿を現す。
(……来た!)
降り立った天使にエルの神道術が作動し——光の鎖が、天使の手足に巻き付く。
「…………!」
天使は一瞬、驚いたように目を見開くが、すぐに落ち着いた様子で、抵抗することも無くその場に立つ。
「……初めまして、天使サマ」
エルは悪人のような笑顔を浮かべ、天使に歩み寄る。
「……何か御用ですか、無雑な子よ」
天使の、感情の読み取れない静かな声が響く。
「お前が、大天使……天使の長だな? 見た目の特徴が、先代イヴの手記に書いてあるのと同じだ」
「…………」
エルは大天使の顔を掴み、こちらに向かせる。
「俺の願いは、お前と契約して、鉄槌を実行すること。できる?」
「できません」
「どうしたら、できる?」
「貴方はイヴではないので、契約できません。大天使が契約するのは、イヴのみです」
「俺が偽物のイヴをやっていることについては、どう思ってるんだ?」
「何とも思いません」
「それに対して、お前は何かしようとは思わないワケ?」
「思いません。主から、人の子がイヴを詐称した場合に罰せよ、という命は受けていませんので」
「ふーん、そう。そうなんだ」
エルは諦めたように口にすると、大天使の心臓部に手を当てる。
「お前が契約してくれないならさ、俺は契約してくれる天使を探すまでだ」
「…………」
「それまで、その心臓。俺が預かっておくな」
エルは大天使の身体に右手をねじ込み——心臓を掴む。
そのまま引き抜き、脈動し、光る臓器を見つめる。
「……さあ、計画を始めようか」
——それから俺は、禁術で聖堂の門を閉じ、大天使の異変に気付いてやって来る天使たちを、一匹ずつおびき出しては、殺した。
天使は、心臓を破壊すると、簡単に死ぬ。
対悪霊用に鍛えられたその身体は、人間に牙を剥かれることは想定していなかったらしい。
神道術を使えば簡単に捕らえられたし、簡単に殺すことが出来た。
殺した天使の霊素は、大天使の心臓へと溜まっていく。
これを繰り返せば、きっと、鉄槌を実行できるぐらいに霊素が溜まるだろう。
そして、たどり着いた、最後の天使。
これでようやく、俺の悲願は達成される——と思ったのだが。
* * *
「お前、誰なんだよ! イヴじゃないだろ! 俺に何する気だ! この鎖、解けよ! 他の天使は全部お前がやったのか? 悪い奴!」
聖堂で捕らえた最後の天使は、低く唸りながら、こちらを睨んでくる。
随分と子どもっぽく、そして、人間味がある。
他の天使はもっと無機質で、感情が感じられなかったというのに。
「まあまあ、天使サマ。俺はね、君と契約したいんだ。契約して、鉄槌を実行してもらおうと思ってね」
子どもをなだめるような口調で、エルは告げる。
「鉄槌……? 鉄槌は、大天使ぐらい霊素がないとできないんだぞ! 馬鹿!」
「そう。その大天使の心臓は、ここにある」
エルは美しい鳥籠の中から大天使の心臓を取り出し、天使に見せる。
「……嘘だろ?」
天使は唖然とし、畏怖の目をエルへと向ける。
「これを壊せば、最後の天使である、お前にすべての霊素が移る。そして、お前が俺と契約して、鉄槌を実行する……これで、終わりだ!」
手にした心臓を、強く握りつぶす。
瞬間——光の塊が壊れた心臓の中から現れ、目の前の天使の中へと入っていく。
「嘘だ……嫌だ! 助けてくれ! アリス! アーク!」
目に涙を溜め、抵抗するように暴れる天使。
「つくづく変わった天使だなあ……他のやつは命乞いも、何もしなかったのに」
エルは天使の前に屈み、視線を合わせる。
「さあ、天使サマ。俺と契約して。そして……鉄槌を」
「できない!」
「できないって……どういうこと?」
「俺はアリスの契約者だ! あと、鉄槌を実行するには、もう少しだけ、霊素が足りない!」
「……そう」
天使は、人間に対して嘘は付けない——先代イヴたちの手記に、そう記されていた。
つまり、この天使の言っていることは、嘘ではない。
(既に天使に契約者がいる場合、新たな契約はできないのか。そして、全ての天使の霊素をかき集めても、まだ足りないと……)
エルは考え、そして口にする。
「わかった。じゃあ、君の契約者と……この地の魔女を、全て狩ろう」
——そこから、俺は行動した。
まず、夜にベアトリーチェの元に行き、速やかに殺害する。
それを天使の契約者とオルランドが追っていた魔女のせいにして、『天使のお告げ』を出し、王都騎士団を使って始末させる。
王都騎士団の使う天使武器は、元は大天使の力だ。
倒した悪霊の霊素は、この地でたった一人の天使へと集まっていく。
そして——時は来た。
* * *
「ほら、天使サマ。とても綺麗だと思わない?」
城の屋根に上り、美しい空と王都を見つめるエル。
「…………」
拘束され、アダムに押さえつけられている天使。歯を食いしばり、黙ってこちらを見つめている。
「君の契約者……アリスは、亡くなったようだね」
「……嘘だ」
「魔女の討伐も、もうそろそろ終わりだ」
「嘘だ! アリスが死んだなんて嘘だ! 嘘だ!」
泣き喚きながら、天使が首を振る。
「さあ、天使サマ。契約して」
「嫌だ!」
「だーめ。君に拒否権はない」
「俺はっ……アリスとしか、契約しない!」
エルは天使に寄り、囁くように告げる。
「さあ、最後の天使。誓いの口付けを」
強引に身体を引き寄せ——顔を近付ける。
「天使サマ、契約だ。さあ、聞いて。俺の名は——」
「サマエル」
耳に心地よく響く——少女の声。
城の屋根に腰かけて王都を見ていたサマエルは、声のする方へと振り返る。
「……やあ、リリー。久しぶりだね」
姿を現した少女は、かつてと同じように、手を振り、笑っている。
昔より伸びた銀色の髪に、昔と同じ星空色の瞳。
「エルも、久しぶり」
数年ぶりに会ったというのに、昨日会ったばかりのような——気の置けない、雰囲気。
「名前、憶えててくれたんだ」
「……忘れるわけないよ」
「リリー、死んだんじゃなかったの? 何で生きてるの?」
「まあ、色々あってね」
「そっか……そうなんだ」
「私、ずっと、貴方に嘘つかれたんだと思っていた。本当はイヴって名前なのに、嘘の名前を教えられた、って」
「俺も。君がセトの婚約者のアリスだって聞かされて、うわあ、リリーじゃないじゃんって、思った」
「私たち、どちらも最初から、嘘なんてついてなかったのね。サマエル」
「そうだね、リリス」
微笑み合う二人の間に、一陣の風が吹く。
「……エクスは何処?」
リリスは静かに、口を開く。
「あの天使。そんな名前だったんだ。もう、ここにはいない。魔女の討伐が終わり、君の友達も死んだ。必要な霊素は溜まったからね……今頃、この世界を滅ぼす準備中だ」
「……どうしたら、止められるの?」
「そうだなあ……鉄槌が行われるより先に、契約者である俺を殺すしかないんじゃない?」
「そうなんだ。じゃあ、そうするね」
リリスは美しく微笑みを浮かべたまま——こちらを見つめる。
「ふふ……いいね、それ」
立ち上がり、彼女の方に視線を向けると、リリスの後ろから一人の男が現れる。
「…………」
漆黒の髪に、青く光る双眸。
「ああ、初めましてだね、黄昏。きっと邪魔しに来るんじゃないかって、思っていた。黄昏は、この地を愛している……そう、思っていたからね」
サマエルは小さく息を吸い、声を張り上げる。
「兄上」
瞬間——サマエルの背後に黒い靄が現れ、アダムが姿を現す。
「アダム……殿下……」
様変わりしたアダムを見て、リリスが声を上げる。
アダムは悪霊のように変形した左腕でサマエルを包み、黒い瞳でリリスとアークを睨む。
「黄昏の為に、用意したんだ。人間になった悪霊と……悪霊になった人間。どちらが強いのか気になったしね……」
サマエルの合図でアダムは天使武器を抜き、リリスとアークに構える。
「来るわよ。いい? アーク!」
「ああ」
リリスは息を吸い、声高に言う。
「二人を倒して——エクスを、止める!」
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