第122話 告白
「……んう」
アダムとイヴの唇が離れ、長い接吻が終わる。
目の前で、何が起こっているのか、理解ができない——
セトは硬直し、ただ、二人の兄の姿を交互に見つめる。
「さてと……」
イヴが一仕事終えたように伸びをして、こちらに身体を向ける。
「ここからが本番だよ、セト」
紫色の目を細めて、イヴが笑う。
その不気味さに、セトはぞっとする。
「ぐっ……!」
瞬間——アダムが膝をつき、苦しみ始める。
「にっ、兄様!? 兄様、どうしたんですか!?」
セトはアダムに寄り、背中を擦る。
アダムは左目を抑え、苦悶の表情を浮かべている。
「兄さ——」
暫くして、アダムの動きが、ぴたりと止まる。
手を離し、セトを見つめたアダムの左目が——黒く染まっている。
アダムの左半身が黒い靄に包まれ、みるみるうちに、姿が変わっていく。
「なっ!? 何を……兄様に、何をしたんだ!?」
セトは後退し、涙ながらに叫ぶ。
「ちょっとね……兄上の魂を、半分壊した。人間性を半分失う代わりに……浮遊霊による、力を得る。どう? かっこ良くなったでしょう?」
立ち上がったアダムの左腕は、悪霊のように黒く、硬く変形している。手の先には獣のような鋭い爪が付いていて、とても人間のものとは思えない。
「何で……何で……こんなことを! 何で!」
頭の中が、絶望に支配される。
目の前の光景が受け入れられずに——ただ、無様に叫ぶ。
「兄上、やっちゃって」
「…………!」
アダムの左腕が、セトの首を掴む。
そのまま高く持ち上げられ、ぎりぎりと首が絞められる。
「か……はっ……!」
息が、できない。
必死にアダムの腕を引っ掻くが、びくともしない。
——俺は、ここで死ぬのだろうか。
変わり果てた、愛する兄の手によって。
本当に、何もできないまま、終わってしまうのだろうか。
涙が溢れ、視界が滲んでいく。
意識がだんだん遠のいていくのを感じていると——不自然に明るいイヴの声が、室内に響く。
「やっぱり、殺すのはやめよう。兄上」
声を聞き、アダムが手を離す。
「……! げほっ、げほっ……!」
解放され、床に転がるセト。
イヴが近くに寄り、顔をのぞき込んで微笑む。
「やっぱりさ、セトには、この地が終わる瞬間を見て欲しいと思ってね。だから殺すのはやめた。俺、優しいでしょう?」
背を向け、部屋に一つだけある、大きな窓の方へと向かうイヴ。
両手で窓を開けると、部屋に新鮮な風が吹き込んでくる。
いつの間にか雪は止み、窓の外に見える空は——暗闇から徐々に、紫色へと変化している。
「何もできない自分に、絶望しながら……死んでね」
そう告げると、アダムに抱き抱えられ、窓の外へと姿を消す。
取り残されたセトは、ただ、己の無力さに——涙を流した。
◇ ◆ ◇
空が紫色に染まり、明るさを放ち始める。
夜明けが、近い。
リリスは急く思いで——家までひたすら走っていた。
「うえ~ん、そろそろ日が出るでありますよ~!」
「急げ、急げ。はやくお家に入らないと」
横を走るネコとクロが、日の光を嫌うように手庇をする。
「アークは、今、魔窟にいるの?」
大通りを駆け抜けながら、リリスはネコに問う。
「あい。恐らく魔窟に引きこもっているであります!」
「そう……急がないと。まもなく『鉄槌』が始まってしまうわ」
「てっつい、って、何でありますか?」
「私もよく解らないけど……この地を、終わらせる何か、らしいわ」
「何だそれ!? やばいやつでありますよ~!」
ネコは悲鳴を上げながら、走る速度を上げる。
「……ん? 何だろう、あそこ。何か、人がいるよ」
クロが、広場近くの役所を指で示す。
「え……? 何かしら?」
リリスはクロが示した役所を見る。
すると——門の前。二人の騎士と、見知った顔がそこにある。
「ごめん、ネコちゃん、クロ! 先にお家に帰ってて!」
「あい? アリ……じゃなくて、リリス? はどうするでありますか?」
「ちょっとだけ……すぐに、私も家に帰るから!」
ネコとクロと別れて、リリスは役所の方へと向かう。
「だから! 城で、たくさん騎士が死んでて……イヴ兄様が、兄様を連れていなくなったんだ!」
「お、落ち着いてください、セト殿下。話が解りかねます」
涙声で騎士に詰め寄る、セトの姿。
リリスは傍に寄り、声を掛ける。
「セト!」
「あ……アリス!? お前、どうして外に!?」
セトは驚き、リリスへと向き直る。
「何やってるんだ? 危険だから、早く家に——」
リリスを掴むセトの手を、強く引っ張り返す。
「アリ、ス……?」
普段、取らないような行動を不思議に思ったのか、セトが怪訝な顔をする。
「セト、手短に話すね。私、貴方にずっと隠していたことがあるの」
「おい、今、それどころじゃなくて……」
「私……アリスじゃないの」
「……何で、今、それを?」
セトは困惑したような表情を浮かべ、リリスを見る。
「私さ、セトの事……ずっと、好きじゃなかった」
真っ直ぐにセトを見つめ、リリスは続ける。
「貴方、私に、馬鹿ってたくさん言うし、何もできないとか言うし。貴方といると、どんどん自分が駄目なやつなんだって思えて……苦しかった。でも、本当は、貴方は私に、不器用なりにずっと向き合おうとしてくれていた……それは、解ってた。貴方がずっと、一人で寂しい思いをしていたのも、気付いていた。でも、私はそんなに、大人じゃなくて。貴方を受け止められるのは……私じゃなかった」
「…………」
「この世界には、きっと、貴方の優しさを……解ってくれる人がいる。だから、セトは、もっと色んな所に行って、色んなことを知って……きっと、幸せになってね。それが私の、最後のお願い」
「お前、何処に……!」
「さようなら。ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」
繋いでいた、セトの手を離す。
セトが何やら叫んでいるのを振り切り、走り出す。
——本当は、もっと早くに、別れるべきだった。
私は弱くて、貴方といることで得られる安心感を、手放したくなかった。
私と貴方は、一緒にいることで、お互いに駄目になっていた。
でも、少しだけ考える。
もっと素直に貴方に接していたのなら、何かが変わっていたのだろうか。
今みたいに、目を見てちゃんと話せていたのなら。二人で一緒に、小さな幸せを育む未来があったのだろうか。
けれども、私は、選んだ。
たとえ人として、間違っていてもいい。
それが私の——求めた幸せなのだから。
家に付く頃には——空は、金色に染まっていた。
まるで聖堂に描かれているような、非現実的な空。
今までに見たことが無いようなその有様に不安を覚えつつ——リリスは家の扉を開く。
「リリス! リリスが帰ってきたであります!」
ネコとクロが無事を喜び、慌ただしく出迎えてくれる。
「ネコちゃん、クロ。お願いがあるの!」
「何? 何でも言って~」
「ご飯の準備を……していて欲しいの!」
「……あい?」
不思議そうな顔する二人を見て、リリスは微笑む。
「約束する。私はこれから、アークを引き摺り出して、エクスを止めに行く! そして、三人でこのお家に帰ってくる! そうしたら……」
「そうしたら?」
「皆で揃って、ご飯を食べましょう!」
ぽかんと口を開ける二人を置いて、リリスは二階の自室へと急ぐ。
長い間、使われていなかった机の引き出しを探り、薄紅色の宝石箱を開く。
大事そうにそこに仕舞われていた銀の指輪を手に取り——左手の薬指にはめる。
(偉いわ、アーク。ちゃんとぴったりに作ってあるじゃない……!)
指に馴染む指輪を見つめ、少しだけ悦に浸る。
部屋を出て、階段を駆け下り、玄関の扉の前に立つ。
「アーク、今行くわ!」
リリスは決戦に向かう騎士のごとき覚悟で——魔窟への扉を開いた。
◇ ◆ ◇
目の前に広がる、闇、闇、闇。
心地良いはずのその闇が——今は煩わしくて、仕方がない。
「我ながら……未練がましくて嫌になるな……」
魔窟のベッドで寝返りを打ちながら、アークは一人、呟く。
目を閉じると思い浮かぶのは、眩いばかりに笑う、少女と天使の姿ばかり。
(お陰で、寝ることも敵わん。どうしてくれるんだ、本当に……)
何も考えられないし、考えたくない。
ただ、虚構を見つめ、記憶が風化していくのを待つだけ。
ぼんやりとした己が視界に——ふわり、と、銀色の髪が映り込む。
(ああ、滑稽だ。アリーの幻影まで見えてきた……本当に、俺はもう駄目なようだ)
目を瞑り、暫くして、もう一度開く。
すると、先程よりも鮮明に、少女の姿が映る。
「あ……?」
慌てて起き上がり、目を擦る。
そこには確かに、銀色の髪に、星空色の瞳をした少女が立っている。
「アリー……?」
少女と目が合うと、少女は少し気まずそうな顔をして、目を背ける。
組まれた左手に——銀色の指輪が光っている。
「ア……リ、リリー……? ん?」
アークが混乱していると、少女は下を向いたまま、口を開く。
「えっと……何から説明していいのか解らないけど、時間がないので、簡潔に言うわ」
決心したように顔を上げると、少女は続ける。
「ずっと、忘れててごめんなさい……貴方はちゃんと、私を迎えに来てくれたのに。私はリリス、貴方の婚約者。そして、私は今から、貴方に『勝負』を挑むわ」
「勝負……?」
まだ状況が飲み込めないでいるアークを、リリスは強く睨み付ける。
「私、今から、貴方に愛の告白をする。それを聞いて、貴方が私を好きだと思ってくれたら……私の言うことを聞いて、一緒にエクスを止めて欲しいの。もし、好きだと思わなかったら……私は一人で、エクスを止めに行くから。どう? この勝負、受けてくれるかしら……?」
リリスの、星空色の瞳が光る。
——その時、気付いた。
少女の名が、どちらかなんて、最早どうでも良かった。
その瞳。たとえ双子だとしても、その輝きは、ただ一人——
「駄目だ」
「ええっ!?」
きっぱりと答えるアークに、リリスが声を上げる。
「ちょ、ちょっと待って。まだ何も言ってないじゃない。せめて聞いてから……」
あたふたするリリスを引き寄せ——アークは笑う。
「聞く前から、俺が負けているではないか」
顔を近づけ、そのまま口付けをする。
これは、願いの成立の証であり——愛の証。
唇を離すと、少し驚いたような、照れたような、何とも面白い表情のリリスと目が合う。
思わず吹き出すと、リリスに肩を引っ叩かれる。
「ちょっと。何よ、何で笑うのよ」
「いや……何でもない」
「で? どうなのよ。私の勝ちってことでいいのね?」
「ああ、それでいい」
「やったわ」
リリスは安堵したような顔を浮かべ、小さく拳を握り締める。
そんな、何でもない仕草さえ——愛おしいと感じる。
——もう、二度と、失わせない。
お前と、お前の愛する全ての為に。
俺は——この身を、捧げよう。
「さあ、お前の敵は……何だ?」
リリスの瞳に映る自分の姿を見て、アークは不敵に笑った。
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