第120話 夜の少女
その日は、ひどく雨が降っていた。
三人で夕食を食べ終え、もうそろそろ寝床に入ろうと思っていた時だった。
家の玄関のドアが、叩かれる。
母が上着を羽織って出ていくと、身体の大きな騎士が立っているのが見える。
母と騎士は何やら難しい話をしていたが、一つだけ、聞き取れた言葉がある。
——危篤。
この間、修道院学校で読んだ、本に出てきた。
死が近い、という意味だということを、リリスは知っていた。
騎士と話し終えたローゼンロートが、アリスとリリスに向かい、口を開く。
「アリス、リリス。お父さんの病気がね~、ちょっと悪くなっちゃったみたいなの。お母さんは今から騎士様の馬車で、一緒に病院に行ってくるわ。もう夜だからね、アリスとリリスは、お利口さんに寝ていてね。大丈夫、大丈夫だからね~」
大丈夫——という母の声は、震えていた。
母は寝間着から平服に着替え、支度を始める。
「ねえ、リリス。お父さん、大丈夫なの……?」
アリスが不安な顔をして、リリスの手を握る。
「危篤だって、聞こえた」
「きとく、って何?」
「そろそろ死んじゃうってことだって」
「……お父さん、死んじゃうの?」
「たぶん……そう」
「私たち、もうお父さんに会えないの? 嫌だよ、リリス。そんなの……」
泣き出しそうな顔をするアリスの手を、ぎゅっと強く握る。
母は忙しくしていて、こちらを見ていない。
行くならば、今だ——
「ねえ、アリス。ついて行こうよ。病院」
「え? でも、子どもは夜に外に出たら、悪霊が来るから、駄目だって」
「大丈夫だよ。悪霊なんて、怖くないよ。それよりも、お父さんにもう会えないかもしれないんだよ、いいの?」
「……嫌だ」
「アリス、行こう。お母さんが気付かないうちに。荷台に乗るの」
「……でも」
「ほら、アリス!」
アリスの手を引き、開け放たれた玄関へと促す。
「……うん、行く!」
深く頷いたアリスと共に——寝間着のまま、リリスは馬車の荷台に隠れた。
——この時の『私』は、アークとの日々を過ごしていたことによって、夜と、悪霊に対しての、恐怖心が薄くなっていた。
父と会えるのが、最期かもしれない。そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。
だけれども、これが間違いだった。
これは、『私』の罪。
消えることのない、深い、罪。
冷たい雨が、降り注いでいる。
荷台には布がかけられていたが、じっとりと濡れて、中まで漏れてきている。視界は暗く、雨が打ち付ける音と、車輪のガタガタいう音が耳に響く。
「リリス、怖いよ……」
馬車に揺られながら、アリスがリリスに抱きつく。
「大丈夫、少しの、辛抱だから」
リリスはアリスの背を擦り、唇をきつく結ぶ。
「騎士様、もう少し速くなりませんか?」
前に乗るローゼンロートが、声を出す。
「すみません、これでも急いでいるのですが……」
馬を操る騎士が、申し訳なさそうに口にする。
「ごめんなさいね、無理を言って……」
「いえ、心中お察しします」
馬車が街道を抜け、山へと差し掛かる。
先程よりも振動が強くなり、アリスとリリスは強く抱き合う。
「んん……何だ?」
「どうかしましたか?」
母と騎士の会話が、耳に入ってくる。
「なんか……目の前。大きな黒い、岩? のようなものが……」
騎士が、呟いたと同時だった。
ガタン——と、大きく車体が揺れる。
「なっ何!?」
「きゃああああああ!」
目の前が、ぐるぐると回る。
地面を削るような、ものすごい音が鳴り響く。
何が起きているのか、解らない——
アリスとリリスは、叫び声を上げる。
暫くして——動きが止まる。
荷台の中で、自分たちがひっくり返っていることに、初めて気が付く。
「いてて……アリス、大丈夫?」
「う、うん……何とか……」
荷台に積んであった衣類が緩衝材となって、大事には至らなかった。
恐らく、馬車が、崖から落ちたんだ——
リリスは四つん這いになり、何とか外に這い出す。
手の土を払い、馬車の前側を見る。
「お母さん……?」
馬車の前側が、潰れている。
瓦礫の下から、母の腕のようなものが、だらり、と出ているのが見える。
「嫌あっ! お母さん! お母さん!」
腕を引っ張るが、母の身体が出てこない。
「アリス! 来て! お母さんが下敷きに!」
必死で叫びながら、母の腕をぐいぐいと引っ張る。
頭が真っ白になり、涙が滲んでくる。
リリスは泣きながら、母の腕を引っ張り続ける。
「リリス……」
魂の抜けたようなアリスの声が、耳に入る。
「どうしたの? アリス。アリスも手伝って……!」
振り返り、アリスの姿を見ると——アリスはある一点を見つめ、固まっている。
不思議に思って、アリスの見つめる先を確認する。
そこに居たのは、黒い岩のような——異形の存在。
四つん這いの、巨大な蛙のような形で、背中に黒い、臓物を固めたみたいなものを乗せている。顔の部分には大きな口と赤い目があり、アリスを見つめ、涎を垂らしている。
身の毛がよだつ、醜悪な物体に——リリスは腰を抜かす。
これが、悪霊だ。
何が、悪霊なんて怖くない、だ。すべての悪霊が、アークみたいな訳がないのに。
土砂降りの中、地べたに座り込み——動くことが出来ない。
「リリス……逃げて」
悪霊から目を逸らさずに、アリスが口にする。
助けなければ。動かなければ。
二人とも、食べられてしまう。
「逃げて!」
アリスが叫んだ瞬間——
悪霊は大きな口を開け、アリスを丸呑みにする。
骨が砕かれるような、パキパキという、嫌な音が聞こえてくる。
あっという間に悪霊はアリスを平らげ、満足そうに湿った息を吐く。
「うう……ああああ、ああああああああああ!」
リリスは叫び、耳を塞ぐ。
私のせいだ。
私のせいで、お母さんも、アリスも、死んでしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
祈る様に呟きながら、リリスは後退る。
悪霊はリリスの方を向くと、じりじりと近寄って来る。
目の前まで、悪霊が迫る。
リリスは死を覚悟し、目を瞑る。
だが、次の瞬間——
悪霊はぶるぶると震え出し、ギャアギャアと喚いたかと思うと、逃げるようにその場からいなくなる。
「何、で……?」
取り残されたリリスは一人、呆然とする。
チェーンで首から下げた、アークに貰った婚約指輪が、キラリと光っている。
「もしかして……これを見て……?」
喰われなかったことに安堵したのも束の間——激しい悲しみが、リリスを襲う。
「お母さん……アリス……」
雨が、強くなっていく。
リリスはただ、泣き叫ぶことしか、できなかった。
——『私』は、耐えられなかった。
彼女を失った、悲しみに。
彼女を死なせてしまったという、重圧に。
どうせ死ぬなら、『私』の方であるべきだった。
明るくて、優しくて、何でもできて、人気者な彼女が、死ぬべきではない。
だから、そう。
彼女の死を——受け入れなかった。
一夜明け——通りすがりの騎士に、少女は保護された。
馬車が事故に遭ったのに、かすり傷程度で済んでよかったと、医者は言っていた。
病院に駆けつけたのは、ローゼンロートの姉であり、伯母の、ヘロディアス。
心が抜け落ちたような顔をした少女に——ヘロディアスは向き合う。
「ああ……一体、何が起きたの? 大丈夫? えっと……」
ヘロディアスは言い淀む。
「貴女は……アリスの方、かしら?」
「……うん」
——その瞬間。
『私』はアリスとなったのだった。
「思い……出した」
リリスは闇の中、アリスと見つめ合う。
「思い出してくれた? リリス」
アリスはにこりと微笑むと、言葉を続ける。
「私……アリスは、あの時、悪霊に喰われて死んでしまった……でも、貴女がアリスを名乗ってくれたお陰で、死の国へ行くはずだった私の魂は、貴女の身体の中に残り続けたの。思い合う双子だから成せた、奇跡なんだよ。貴女の身体には、アリスとリリス、両方の魂が入っていたの。そして、私を喰べた悪霊は後に消滅し……私の霊は、貴女の中へ戻った。だからね、リリス。私はこれから、正しく死ぬことが出来るの。今、ここで死ぬのは、私一人でいい。だから、貴女は、戻るべきよ」
「嫌、アリス。行かないで……」
徐々に薄くなっていくアリスの身体を——リリスは強く、抱きしめる。
「私……アリスのいない世界で、生きていくことなんてできない」
「そんなことない。貴女は、私がいなくなった後も、ちゃんとやれてた」
「アリス、私には、貴女が必要なの! 私、明るくないし、優しくないし、不器用だし、死ぬなら……私であるべき!」
「リリス、私は本来なら、もう死んでいるの。だから……これは、必然」
「嫌よ……アリス、アリス……!」
「大丈夫。リリス。貴女なら、きっと何でもできる」
「お願い! アリス、一人にしないで! ねえ!」
「馬鹿ね、リリス」
アリスはリリスの耳元に近付き、そっと囁く。
「リリスはもう……一人じゃないでしょう?」
「アリス!!」
「ぎぃやあああああああああああ!」
目を開け、上体を起こすと——リリスは土にまみれていた。
深く掘られた穴の中にいて、何が何だか解らず、目をぱちくりさせる。
「あ……あああああ……アリスの死体が、悪霊に乗っ取られたでありまあああす!」
穴の向こうで、ネコとクロが抱き合い、身体をがたがたと震わせている。
「ネコちゃんと……クロ?」
リリスが目を見開いて口にすると、クロが身を乗り出して、問う。
「あれ……? 待って、もしかして、本物のアリスなの?」
「ううん、私、アリスじゃないの」
「あああああああ! やっぱり乗っ取られたでありますよおおお!!」
ネコがクロを掴み、ぐわんぐわんと揺する。
「ねえ、ネコちゃん。今、どのくらい?」
「えっと……あと一時間ちょっとで、日の出でありますよ」
「私が死んでから、そんなに経ってないわね?」
「あ、あい……」
「急がなきゃ! 私、エクスを探しに行かなきゃ!」
リリスは穴から這い出し、身体の土を取り払う。
「あの、やっぱり、アリスなの……? アリス、生き返ったの……?
」
恐々と口にするクロの頭を撫で、リリスは言う。
「全部終わったら、説明する。とにかく、私、家に帰らなきゃ」
「家に帰って、何をするでありますか?」
「取りに行きたいものがあるの……あとは……」
息を吸い——リリスは毅然と、前を向く。
「アークに……会いに行く!」
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