第105話 愛の寓意 Ⅱ
冷たい石の壁に囲まれ、薄暗い光が辺りを包んでいる。
牢の中は澱んだ空気が流れ、遠く聞こえる足音だけが、耳を刺激する。
(……足音からすると、監視は一人。そして……今は、遠くにいる)
硬いベットに腰かけていたベアトリーチェは、そろりと立ち上がる。
己の下着の中に隠していた——鉄製の鍵を取り出す。
(アダムは、本当に詰めが甘いわね。この城の牢は、長年私が管理していたのだから。親鍵ぐらい……持っていて当然なのにね)
隠し持っていた鍵を使い、牢の扉を開ける。
足音を立てないように細心の注意を払って、監視のいる方角へと足を進める。
おあつらえ向きに通路に立て掛けてあった長剣を手に取り——背後から、背中を一突きにする。
「がはっ……!」
血の塊を吐いて倒れる男を、動かなくなるまでじっと見つめる。やがて事切れたそれを足蹴にして、ベアトリーチェは溜息を吐く。
(ああ、なんて弱いのかしら。本当に、王都を守る覚悟がないものばかりで……嫌になるわ)
かつてリリウム隊の隊長を務め、『黒髪の戦乙女』と呼ばれたベアトリーチェが相手だとしても——あまりにも脆い。
こんな状態で、他人に愛する王都を任せることなど、到底できやしない。
大きく息を吸い、ベアトリーチェは己の使命を思い出す。
ベアトリーチェは、エディリア士族の、一人娘として生まれた。
父は立派なダリア隊の王都騎士であったため、幼い頃より、王都を守る『騎士』という存在に憧れていた。
だが、憧れの父はベアトリーチェが十歳の頃に、帰らぬ人となった。魔女との戦いに敗れ、死体は悪霊に喰われ——何も残らなかった。
王都を守りたい、が口癖だった父の思いを継いで、士官学校を出て、リリウム隊に入隊した。強く正しく、誰よりも美しく。己の務めを果たすベアトリーチェの評判は、瞬く間に王都中に広まった。
そんな中——新王となったオーディンが、「是非とも王妃として迎え入れたい」と求婚してきた。
赤みを帯びた金色の長髪に、深紅の瞳が印象的な——雄健だが心優しい、男だった。
ベアトリーチェは承諾した。
王妃となれば、今よりもっと、王都を良くするために動ける。憎き魔女を取り締まり、悪霊どもを狩る——その権利を有することができたのだ。
王妃となったベアトリーチェは、まず、王都騎士団や官僚の堕落っぷりに落胆する。己の私利私欲のためだけに権力を振るい、本当にエディリアのことを思っている人物は皆無だった。
その原因の一つに、ここ十数年以上、王家に『イヴ』の名を持つ子が生まれていないことがあった。
イヴという存在を失い、大悪霊の姿も見なくなって久しい。王家の重役たちはすっかり怠けており、民からの信頼も地に落ちていた。
このままではいけない——そう思ったベアトリーチェは、王との間に、子を成すことを決意する。しばらくして懐妊し、皆が期待を寄せるが、ベアトリーチェが『イヴ』の名を持つ子を産むことはなかった。
イヴという力を得て、王都を支配することが叶わなかったベアトリーチェが次に考えたのは——王都の『浄化』だった。
まず、ベアトリーチェは、ここ最近、王城に住まう人物が消えるという怪事件の調査をした。消えた人物の交友関係、趣味、動向をくまなく調べ——辿り着いた容疑者は、オーディンの弟、ロメオだった。
ベアトリーチェは、深夜にこっそり、ロメオの後を付けた。付けた先に——かつての部下、リリウム隊の隊員を喰らう、ロメオの姿を捉えたのだ。
ロメオの中には、悪霊が入っていた。ベアトリーチェは、そんなロメオを始末することなく、協力を持ち掛けた。
自分と組めば、たくさん人が殺せて、たくさんの霊が喰べられる。匿ってやるし、立場も与えてやると約束した。
——所詮、神に見捨てられた身だ。王都を守るためならば、悪霊の力だって使って見せようじゃないか。
しかし、ロメオは思ったよりも扱いづらい駒だった。
好き嫌いが激しく、美しい女しか喰わないという。魔女や犯罪者には男も醜女もいるというのに、そんなことはお構いなしだった。
そこでベアトリーチェは、ダリア隊が生け捕りにしたという、小さな鼠の姿をした悪霊に目を付ける。
話しかけても、キイ、と鳴くだけの、言葉を持たない下等な悪霊。彼をこっそりと地下牢に連れ出し、ロメオが喰わなかった人間を与え続けた。
ベアトリーチェが数々の魔女や犯罪者を裁き、王都で『賢女様』と呼ばれる頃には——悪霊はすっかり、巨大に成長していた。
だが、死体ばかりを与えていた為だろうか。悪霊はいつまで経っても、意志や理性を持たなかった。
そんなある日。現王・オーディンが、ベアトリーチェの『やり方』が間違っていると詰め寄ってきた。ベアトリーチェは反論した。自分の行動原理は、王都を守るためであり、全ては愛の結果である、と。だが、オーディンは引き下がらなかった。全てを民に公表し、もうこんなことは止めるんだ、と聞かなかった。
オーディンとベアトリーチェは揉めに揉め——ついには、ベアトリーチェはオーディンを刺し殺してしまう。
ベアトリーチェはオーディンを悪霊に喰わせた後、医師を買収して、難病にかかったことにする。
オーディンの代わりに表舞台に立つようになったベアトリーチェは、世俗的権威そのものになった。
王都はより平和になり、民は王家を称えるようになった。
その裏で、ベアトリーチェはロメオを使い、悪霊に人間という餌を与え続けた。丁度いいことに、オーディンを喰わせた後、悪霊が少しずつだが、自分の命令を聞くようになった。
悪霊は、生前の強い思念に影響されることがあると、書物で読んだことがあった。
優しいばかりで他人を切り離せず、王としては半人前だった夫も——少しは自分の役に立つことがあったんだなと、感じた。
最早、自分を邪魔する者は——何処にもいない。
そう、思っていたのに。
監視を始末したベアトリーチェは、王族しか知らない、隠し通路の扉へと向かう。
(まだ、ひっくり返せる。生きてさえいれば……アダムから王都を取り戻すことなんて、簡単なことだわ。今ならまだ、私の方が民の支持があるんだから……!)
未だにベアトリーチェの処罰が決まっていないところからすると、誰も真相にはたどり着けてないのだろう。
今頃アダムは、最早何処にもいない——父の姿でも、必死に探しているのかもしれない。
ベアトリーチェは親鍵を握り、扉の鍵穴へと差し込む。
瞬間——背中に熱い、衝撃を感じる。
「あら? 何かしら……これ」
自分の胸に、ギラリと光る、刃が見える。
後ろから刺されたことに、その時、やっと気が付いた。
剣を引き抜かれると同時に、自分の口から血が零れる。
後ろを振り返り——ベアトリーチェは、口にする。
「何であなたが……ここ……にいるの……かしら……」
薄れゆく意識の中。最期に思い浮かんだのは——王都を守る、と言った、父の優しい笑顔だった。
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