第104話 愛の寓意 Ⅰ
テーブルに置かれた手付かずのエッグスラットを横目に、アリスの胸は罪悪感で一杯だった。
——俺とアーク。どっちかとしか一緒にいれないってなったら、どっちを選ぶ?
彼の真っ直ぐな言葉に、どう答えるのが正解だったのだろうか。
どうしたら、エクスを傷つけずに済んだのだろうか。
どうしたら、エクスともアークたちとも、一緒にいられるのだろうか。
考えても考えても——答えは出てこない。
「あれ? アリス。天使はまだ帰ってきてないでありますか?」
キッチンに入ってきたネコが、辺りをきょろきょろと見回す。
「うん……そうみたい」
「何かあったでありますか? アリス、昨日からずっと暗い顔してるでありますよ」
まん丸の瞳をこちらに向けて、ネコが問いかけてくる。
調理器具を片付けているアークとクロも、黙って聞き耳を立てている様子だ。
「実は昨日……ちょっと、エクスと喧嘩っぽくなっちゃって」
「それだけでありますか?」
「え? うん……エクスのこと、傷付けちゃったかもしれなくて」
「えー? 『消えろ』とか『出ていけ』って言ったでありますか?」
「そ、そんなことは言ってないけど」
「言ってないでありますか? なのに出ていっただなんて。ネコちゃんなんて、料理に使う生クリームを勝手に食べて、ご主人に踏み潰されても出ていかないでありますよ?」
何故か得意げな顔をして、ネコが胸を張る。
「己の非を自慢げに語るな」
片付けを終えたアークはネコの額をぺしんと叩くと、アリスに目線を移す。
「……あまり心配しすぎるな、アリー。あんなだが、あいつは天使だからな。迷子になったり、野盗に襲われたりすることはないさ」
いつもより少し、無感情な印象の声のアーク。
「そうだよ。お腹が減ったら、きっと帰ってくるよ~」
クロも元気づけようとしてくれているのか、足元に擦り寄りながら言う。
「ううん……」
そうは言われても、心配なものは心配だ。
エクスは強い。そして、出会った時よりもずっと強くなった。それはアリスが、一番知っていることだ。
だが、天使が聖女の協力なしで一人で戦うのには、限界がある。
意地になって、無茶をしていないだろうか。そう思うと、居ても立っても居られなくなる。
「私、ちょっと街を、探してみる」
キッチンの椅子から勢いよく立ち上がり、アリスは部屋へと上着を取りに向かう。
「自宅待機じゃなかったのか?」
背後から、アークの声が響く。
「少しぐらいなら、大丈夫だと思う……行ってくる!」
玄関の扉を押し開け、王都の大通りへと向かう。街路樹は赤や黄に色付き、鮮やかな色彩が目に入る。外の空気はすっかり冷たくなっていて、エクスが何処かで震えていないか心配になる。
(大通りは……いつも通り、賑やかだわ)
目に映るのは、いつだって、幸せそうな人々の姿。
美味しそうなパンを抱えて、帰宅する男女。煌びやかな武具をまじまじと見つめる、若い騎士見習い。この寒い中、薄着で走り回る、小さな子どもたち。
エクスの姿は——そこにはない。
こんなことなら、もっとエクスの話を聞いておくんだったと、後悔する。前々から、王都にはアリスと行きたいところが沢山あると、エクスが目を輝かせながら言っていた。あの時は、はいはい、と言って適当に流してしまった。真面目に聞いておけば、手掛かりになったかもしれないのに。
(大通りには、いなそうだわ。他を、当たってみようかしら……)
天使が身を隠せそうな場所があるとしたら、何処だろうかと思案する。
普通の人には見えないとはいえ、エクスの姿が見える人は、自分やセトがそうだったように——僅かながら存在する。
そうなると、人の多い場所にはいないだろう。もし、自分がエクスだったとしたら、どんな所に隠れるだろうか。
静かで、落ち着いていて——綺麗な所。
ふと、頭の中に、ある場所が思い浮かぶ。
(もしかしたら、あの教会にいるかもしれない……!)
アリスは小走りで、教会を目指す。広場から小路へと進み——白亜の塔が見えてくる。息を切らしたまま、開け放たれた教会の内部へと足を踏み入れる。
「エクス……? いる?」
名前を呼んでみたが、返事がない。
辺りを見回しながら奥へと進むが、何処にもエクスの姿はない。
気落ちするアリスだったが、久しぶりに来たお気に入りの教会は——相変わらず、静謐で、時が止まっているかのように感じられた。
いつも気分が沈んだ時は、ここを訪れていた。最近は来ることを忘れるぐらい、楽しい生活を送っていたんだと——改めて気付かされる。
(前に……ここで一人で震えていたら、エクスが来てくれたことが、あったっけ)
ミダスに襲われたのを伯母に見られて、家を飛び出した時だった。あの頃のエクスは、今よりも感情表現が乏しくて——陶器で出来た作り物のように美しい顔で、不思議そうにアリスを見ていた。
けれども、来てくれたことで、たしかに救われた。
エクスが今、あの時のアリスと同じように一人でいるなら、早く見つけてあげたい——そう思わずにはいられなかった。
「……どうしたんですか、学生さん」
どこか懐かしい、耳に心地良い声色。
はっとして振り返ると、教会の入口から一人の男が姿を現す。
赤い髪に、優しい笑顔を湛えた——この教会の近くの孤児院で暮らす神父——という名目の、オーロラだ。
「……ちょっとだけ、久しぶりね、オーロラ。今日、学校は? 行かなかったの?」
「はい。今日は神父業があったので『オーロラ』はお休みを頂きました。学生さんこそ、最近学校に来ないじゃないですか。王族の行事があるって先生から聞いてますけど……美少女に会えない寂しさで、危うく死ぬところでした!」
「今日はその、ずっと神父キャラなわけ?」
「はい!」
「ああ、そう……」
嬉しそうに答えるオーロラに、アリスは溜息を吐く。教会内の長椅子に腰かけると、神父姿のオーロラが隣へと座る。
「で? 実際。学生さんは最近、何をしてるんですか?」
眼鏡の奥の、黄金色の瞳が怪しく光る。
オーロラ相手には、隠す必要もないだろう——アリスは一呼吸おいて、静かに話し出す。
「ちょっとね。王家のごたごたに巻き込まれたのよ。王城で、悪霊と戦った。それが複数の人に目撃されちゃって、ほとぼりが冷めるまで家から出るなって、アダム殿下に言われてるの」
「家から出るなって言われてるのに、何で出て来ちゃったんですか? もしかして、私に会いに来たんですか!?」
「それは……エクスが、昨日から家に帰ってないの。だから、探しに」
「エッちゃんがですか?」
「うん。オーロラ、エクスを見てない?」
「見てませんねえ。あと、オーロラじゃなくて、この姿の時は『神父さま』でお願いします!」
「ええ……」
面倒くさいな、とは思いつつ、別に抵抗するほどのことでもないだろう。仕方ないので、オーロラに合わせて会話をする。
「……神父さま。昨日、エクスと喧嘩みたいになっちゃって。今までだって言い合いになることはあったけど、エクスが家を飛び出して行っちゃうなんて初めてで。今も何処にいるのか解らないの。私、どうしたらいいのか……」
暗い顔のアリスを見て、神父は目を丸くする。
「学生さんは、ご家族や友人と、喧嘩したことがないのですか?」
「えっ? 無いわけじゃないと思うけど……はっきり、覚えてないわ」
「はっきり覚えてないぐらい、自然と仲直りできたってことでしょう?」
「そ、そうだったかしら……?」
過去のことを思い出そうとすると、いつも頭の中に霧がかかったようにぼんやりとしてしまう。自分が『どっち』だったのか——それが解らなくなってしまうのだ。
昔、たしかにリリスと喧嘩をしたことがある。だが、リリスに自分が隠しごとをしていたのか、リリスが自分に隠しごとをしていたのか、はっきり思い出せない。とにかく、教えたくない、教えてくれないと、そんな感じで揉めた二人は、しばらく口をきかなくなった。無言で夕食を食べ、無言でベッドに入った。だが、次の日になったら、すっかり元通りになっていた——気がする。
「でも、家族とエクスは、やはりちょっと違うっていうか……そもそも、私とエクスって、何なのかしら」
「何って?」
「関係性というのかしら……家族ではないし、恋人でもないもの」
「何だっていいんじゃないですかね。そこに愛があれば」
「愛って……」
恥ずかしげもなく『愛』という言葉を使う神父に、少し動揺する。
エクスと自分は、天使と聖女。契約で結ばれた、それだけの関係。
そう思っていたのに。いつの間にか、なくてはならない存在になってしまったのだろうか。
相手を必要とし、その存在が、幸せであることを気に掛ける——
それを、愛している、と言ってもいいのだろうか。
「エッちゃんは、たった一度の喧嘩ぐらいで、学生さんのことを嫌いになったりしないと思いますよ」
「……何で、神父さまがそんなこと、解るの?」
「そりゃあ、同じ女性を愛する者同士ですから!」
神父姿のオーロラはにこりと笑い、長椅子から立ち上がる。
「だから、学生さんは、エッちゃんが帰ってきたときに、笑顔で迎えてあげる。それだけで、いいんですよ」
そう言って、聖堂の壁画を背景に佇む神父は、本物の——神の使いのように見えた。
「そうだよね……うん。そうする」
アリスはぎゅっと拳を握り、エクスの顔を思い浮かべる。
——好きだと言ってくれて、嬉しかった。
死ぬまで一緒と言ってくれて、心強かった。
当たり前に君が傍にいることに、甘えていた。
いつでも強く美しい君は、まだ生まれて三年の——小さな子どもに等しいのに。
帰ってきたら、『ごめんね』と伝えよう。
そして、思い切り、抱きしめよう。
美しきイヴの絵画が、日の光を浴びてキラキラと輝いている。
アリスは神父に別れを告げ、家へと帰った。
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