第102話 天使の言い分 Ⅰ
「うーん! 今日のお昼ご飯も、美味しかったわ」
アリスは空になった皿に手を合わせる。心もお腹も満たされて、とても気分が良い。
居間からはエクスとクロとネコの騒ぎ声が聞こえる——いつも通りの昼時だ。
「お気に召したようで」
キッチンで包丁を研ぐアークが、アリスに声を掛ける。
「魚介のパエリア? 気に入ったわ。九十八点ってとこね」
「その、足りない二点は何なんだ」
「アークの愛情が足りてない」
「よく解らないことを言うな」
「ふふん」
得意げな顔をして、流し台へと皿を運ぶ。アークの隣に立って、ふと、感じたことを口にする。
「ねえ、アーク。そろそろ冬が来るわ」
「そうだな」
「冬の準備をしなくちゃ。王都でも、長期休みに入る店が出てくるわ」
「ぼちぼち、買いだめをしておかなければな」
「アーク、また夜市に連れて行ってよ」
「いいだろう」
「やったわ」
うきうきして、その場でくるりと回る。こちらに目線を向けないで黙々と作業をするアークの、横顔を見る。
精悍で、とても綺麗な顔。
アリスの好みとは少し違うが、それでも、見飽きることはない。
だが、何故だろう。普段とは違う、真剣な目つきのせいか——謂れのない不安が、頭をよぎる。
「アーク、あのさ」
「ん? 今日はよく喋るな?」
「春になったら、何をしよう」
「……まだ冬になってないだろう。気が早いな」
真剣な顔から、少し笑顔になるアーク。
——先の話をするのは、確証が欲しいからだ。
アークやクロやネコ、それにエクスも。
彼らは、いつまで——傍にいてくれるのだろうか。
天使と悪霊との共同生活は普通じゃない。この幸せは、当たり前にあるものじゃない。そう思うと、押しつぶされそうな感覚に襲われる。
「アークは春になっても、この家にいるわよね?」
ぽつりと呟いた、自分の声が不気味に響く。
少しの間、沈黙が流れる。ざらりとした不安を覚え、アリスが何かを口にしようとした瞬間——
「それは、アリー次第だな。春までに俺を殺せたら、俺はいないだろうよ」
「…………」
考えないようにしていたことを言われてしまい、視界が滲む。今の生活が全て許されないことのように思えてきて、どうしようもなくなる。
「……アリー?」
気が付いたら、アークの背に抱きついていた。
普通の人間よりも低い、ひんやりとした悪霊の体温。彼がたしかにそこに『居る』という証のようで、少しだけ安心する。
「どうした? 今日は甘えん坊だな」
「……そんなんじゃない」
「どうせなら、正面からハグしてやろうか?」
「……いらない」
アークの背から離れると、蒼玉のような瞳がこちらを向く。そのまま吸い込まれてしまいそうで、自然と鼓動が速くなる。
「仕方ないから、私が殺すまでは、ここで暮らしてもいいわよ? アークも、ネコちゃんも、クロも」
口から出てきたのは、筋の通らない、希望。
「いいのか? 俺らはお前の敵で、悪霊だぞ?」
アークは少し邪悪に笑って、こちらを見る。
「でも、人を殺したり、喰べたりしないじゃない」
「今日はしなくても、明日は解らないぞ?」
「嫌。約束して。私と暮らしている間は、誰も殺したり、喰べたりしないって」
「なかなか束縛の激しい奴だな」
「ねえ、だからこの先も……」
一緒にいて——
それが言えずに、詰まる。
黙って下を向いていると、アークがぽん、と、頭に手を乗せてくる。
「……まあ、アリー。先のことなんて心配するだけ無駄だ。お前は、目先のことだけ考えていればいいさ」
父が娘を励ますような口調で告げると、アークはキッチンから出ていく。
一人残されたアリスは、大きな溜息を吐く。
アークにとって自分は、どんな存在なのだろうか。ただの、弱く小さな子どもに見えるのだろうか。アークはこの生活を、何とも思っていないのだろうか。途方もなく長い彼の時間の、ほんの少しの戯れなのだろうか——
そう思うと、寂しい。
もっと、アークにとっても、特別な『何か』でありたい。そんな風に思うのは、間違っているのだろうか。
「……はあ」
ドキドキと煩い心臓を落ち着けようと深呼吸をすると、キッチンの入口付近に——何者かの視線を感じる。
何も言わず、静かに。深紅の瞳が、こちらを睨んでいる。
「……エクス?」
呼んでも返事がない。エクスは不機嫌な顔のまま、黙ってこちらを見ている。
「何してるの? あ、お茶飲みに来たの? 何がいい?」
アリスが棚へと目を向けると、のっそりとエクスがキッチンへと入ってくる。
「また、アリス。アークとイチャついてた」
尖った口調で、エクスが言う。
「いちゃ……?」
イチャつく、とは、何のことを言っているのだろうか。しばし考えこんで、アリスは顔を赤くする。
先程、アークに抱きついていたのを、エクスは見ていたのだろうか。そう思うと、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。
「い、イチャついてなんかいないわよ!」
「嘘だ。最近、アークとアリス、隙あらばイチャイチャしてる」
「そんなんじゃないってば!」
「なあ、アリス。アリスはアークと俺、どっちが好き?」
「は……? 何で?」
エクスの意味不明な問いかけに、アリスは少し苛立つ。
「俺とアーク。どっちかとしか一緒にいれないってなったら、どっちを選ぶ?」
「何でそんなこと聞くの?」
「大事なことなんだよ、アリス」
真剣な顔をしたエクスに、ぐい、と右手を掴まれる。
「何よ……改まって。どうしたの?」
下手な笑顔を作り、エクスを諭すように話す。
「俺さ、ずっと言わなくちゃって思ってた。俺自身も、よくなかった。アークのご飯好きだし、クロとネコは一緒に遊んでくれるし。俺、この生活、嫌いじゃなかったから。でも……このままじゃ、駄目なんだ」
「駄目って、何がよ?」
「アリスも解っているんだろう? あいつら、『悪霊』なんだよ」
「…………」
「俺らはあいつらのこと、倒さなくちゃいけないんだ。仲良くなりすぎちゃ駄目なんだよ、アリス」
「そんなこと解ってるわよ。アークのこと倒すために、一緒に生活してるんじゃない」
「嘘だ」
いつになく静かな声で、エクスが続ける。
「アリス、あいつの事、本気で好きだろ」
「……そういうのじゃ、ない」
「ちゃんと俺の目を見て言えよ」
「なあに? どうしたの? エクス。お腹空いて機嫌でも悪いの?」
「アリス、もう一度言うぞ。俺とアーク、お前はどっちを選ぶんだ?」
「……そんなの選べないよ」
「真面目に考えろよ! アークが今までに、何人の天使や聖女を殺したか、教えたよな? クロとネコだって、今は弱くて大人しかもしれないけど、急に気が変わって、お前のことを喰おうとするかもしれないんだぞ?」
「エクス……」
「アリスは俺を選ぶよな? 何があっても、離れたりしないよな? だって、あいつらは——」
「エクス!」
叫ぶように名を呼ぶと、エクスはびくりとし、こちらを見る。
「アークと、ネコちゃんとクロを……あまり悪く言わないでよ」
精一杯の笑顔を作るが、声が震えている。
気持ちが伝わったのか伝わってないのかは解らないが——酷く傷ついたような顔をして、エクスが口にする。
「……アリスは、そんなに、アークたちが好き?」
「そりゃあ、うん。好きだよ」
「……解った。じゃあ、もういい」
「待って、エクス。エクスのことも好きだよ。私」
その場を去ろうとするエクスの左腕を掴むが——乱暴に振り払われる。
「俺だけのアリスじゃないなら、いらない」
そう言い残し、エクスは玄関の扉を開けて、出ていく。
「エク……ス?」
初めての——エクスの強い拒絶。
その衝撃が受け止められず、しばらく動くことが出来なかった。
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