第100話 混沌 Ⅰ
士官学校が終わると、真っ先に向かう場所。
誰もいない廊下を行き、自分にとって最も居心地の良い部屋の扉を開く。
柔らかな日差し、白い部屋。ふわりと香る、甘い花のような匂い。
「あ、お帰りなさい。兄上」
部屋の中心にある大きなベッドから身を起こし、イヴが微笑みかけてくる。金色の長い髪に、白い肌。齢十三になったばかりだが、大人顔負けの美貌と、色気がある。
「ただいま、イヴ。お菓子を持ってきてやったぞ」
「わあい」
持ってきた菓子を机に並べ、ハーブティーを淹れる。イヴはベッドに腰かけ、足をぱたぱたと動かして待っている。
「今日は、学校で何をしたの?」
キラキラと輝く瞳を向けて、イヴが口にする。アダムが士官学校から帰った時の、お決まりのやり取りだ。
「剣術の試合があったな。オルランドと対戦した」
「へえ、負けたの?」
「まさか」
「あはは、オルランドも弱いわけじゃないのにねえ。兄上が相手じゃ可哀想だ」
「そうかな」
アダムはベッドの横にあるソファーに制服の上着を放り投げて座り、嬉しそうに菓子を頬張るイヴを見つめる。
「イヴは、何をしていたんだ?」
「特に何も。空を見てた」
「イヴは、空を見るのが好きだな」
「別にそうじゃないけど。やることないから、なんとなく」
イヴは猫のように伸びをすると、ベッドに身体を預ける。
「……ねえ、兄上」
「どうした?」
「俺、外に出たい」
「それは、ちょっとな……お前を外に出すとなると、警備も必要だし。最近、体調もあまり良くないだろう?」
「えー……」
「何か必要なものがあったら、俺が持ってきてやるから」
「うん……」
「いつか絶対に、お前を自由にしてやるから。それまで、待っててくれ」
不満そうな顔のまま目を瞑るイヴの頭を、そっと撫でる。
「……兄上は、この先もずっと、俺の傍にいる?」
「ああ」
「何があっても、味方でいてくれる?」
「勿論だ」
「……約束して」
「ああ、約束だ」
差し出されるイヴの小指に、自分の指を絡める。
このやり取りは、何回目だろうか。不安になるとイヴは、いつもこうして約束をしたがるのだ。
必要とされるのが、何より嬉しかった。
小さくて可愛い、俺のイヴ。
これ以上、彼が苦しむことが無いように。
これ以上、ベアトリーチェに歪められることが無いように。
全ての悪意から、守ってやりたい。
イヴは——俺の全てだ。
◇ ◆ ◇
ギィアアアアアアアアアアア!!
心臓部を突き刺された悪霊は叫び声を上げ、藻掻く。
「何ですって……? 私が育てた悪霊が、負ける……?」
傍観していたベアトリーチェが、ぽつりと呟く。
信じられないといった様子のベアトリーチェに、アダムが向き直る。
「……母上。もう、終わりにしよう。自分のやったことを認めて……」
アダムが言いかけた、その瞬間——
悪霊が黒い血を吐きながら、咆哮する。
「なっ、何!?」
「アリス、悪霊が蒸発しない! 心臓部への攻撃が甘かったんだ!」
「噓!?」
エクスの声に、アリスは身構える。
悪霊は曲がった両足を伸ばし、立ち上がる。ただでさえ巨大な図体が、ことさらに大きく見える。
恐怖したのも束の間——残った腕をばたつかせると、悪霊はアリスが割って入ってきた穴の縁を掴み、地上へと這い出ていく。
「大変! 悪霊が、地上に出て行っちゃう!」
「アリス、追うぞ! 掴まれ!」
剣から人の姿へと変わったエクスはアリスを抱え、悪霊を追って穴から地上へと出る。
「……ベアトリーチェ! どうしてくれるんだ!」
アダムはベアトリーチェの胸ぐらを掴み、声を荒げる。
「お前の育てた悪霊のせいで街や民に被害が出たら、どう責任取るつもりなんだ!?」
「…………」
「くそっ……! どうすれば……!」
人形のように無表情になったベアトリーチェから手を離し、アダムは割れた天井を見つめる。
「ぎゃあああああああああ!」
地上に出ると、王都騎士の叫び声が響く。
「何だ、この化け物は⁉ 悪霊なのか? でかすぎる!」
中庭の異変に気付いて外に出てきた騎士たちが、巨大な悪霊と対峙している。
悪霊は心臓部からぼたぼたと黒い血を流し、暴れ回るように騎士たちに攻撃を仕掛ける。
「うわあああああっ!」
一人の騎士が、悪霊に身体を掴まれる。
「ぎゃあああああ! 喰われたくない! 助けてくれええええ!」
「アリス!」
すばやく剣へと姿を変え、エクスが己の右手に握られる。
「解ってる!」
アリスは悪霊へと駆け寄り、騎士が捕まっている腕を斬りつける。
悪霊は呻いて、騎士を解放する。地面に落ちた騎士へと近づき、声を掛ける。
「大丈夫ですか!?」
「た、助けてくれたのか……? あの、お嬢さんは、一体……?」
不思議そうな目でアリスを見る王都騎士。どうやら、怪我はないようだ。
「私のことは気にしないでください! それより、皆さんは避難してください!」
叫んだ後、アリスは悪霊の前に立つ。悪霊は、赤い目玉をアリスの方へと向ける。
「こいつを逃がすわけにはいかないわ。こんなものが街に出たら、大変なことになっちゃう!
「ああ。もう一度、地下に戻そう。そして、今度こそトドメを刺す!」
悪霊は咆哮し、アリスに掴みかかるように腕を動かす。その腕をひらひらと避け、腕を細かく斬りつけていく。次第に悪霊の動きは遅くなり——その場で蹲る。
「今だわ、エクス! 私を抱えて、飛んで!」
「あいよ!」
剣の柄が、人の手へと変わる。背中に翼を生やしたエクスに身体を支えられ、アリスは空へと舞い上がる。
巨大な悪霊よりも高い位置。アリスは悪霊の、頭部を捉える。
「エクス。空中でも、武器に変身できる?」
「できるけど……アリス、落ちるぞ?」
「ううん……怖いけど! やるしかない!」
「よし、行くぞ!」
エクスが姿を変え、アリスは落下する。
(怖がるな! 落下しながらでも想像しろ! あの悪霊を倒す、すごい武器を……!)
右手に握られた剣が、変形する。またたく間に大きくなり——大型の、金槌のような形になる。
「穴に、戻りなさぁい!」
アリスが手にした白い金槌が、高所から悪霊の頭部へと振り下ろされる。
グオオオオオオオオオオオ!!
頭を抱えて、よろける悪霊。
そのまま後退し、這い出た穴へと、再び落ちていく。
「アダム殿下!! トドメを!!」
アリスは、穴に向かって叫ぶ。
ズドォン、と、物凄い音を立てて地下へと落ちる悪霊。
「…………!」
アリスの声を聞き、アダムは悪霊へと駆ける。
ぐったりと横たわった悪霊の中心には、脈動する臓器のようなものが見える。
アダムは悪霊へと乗り上げ、心臓部に向かって構える。
「……終わりだ、な」
アダムの天使武器が、悪霊の心臓部を貫く。
瞬間、悪霊の巨大な身体が蒸発してく。小さくなり、黒焦げになった人のようなものが残る。
黒焦げの人形は消える寸前——アダムの頬に、触れる。
「…………?」
辺りは眩い光の玉に包まれる。アリスとエクスは地上へと降り、エクスが光の玉を吸収する。
「……母上」
静かな声で、アダムが口にする。
ベアトリーチェはただ無言で、アダムを見ている。
「もう、言い逃れできないぞ。あの悪霊は、城の者にも目撃された」
「…………」
「皆が納得するような説明を、してもらうからな」
アダムの言葉に、ベアトリーチェが、ふふ、と笑う。
「はあ、残念。どうやら、私の負けみたい」
いつものように自身たっぷりの態度に戻ったベアトリーチェが、両手を上げて、降参するような態度を示す。
「解ったわ。アダムの、言うとおりにする」
やがて、騒ぎを聞きつけた王都騎士たちが、次々に地下へと集まる。
ベアトリーチェは手錠を掛けられ——その場を後にした。
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