第96話 都の裏で
アダムは姿を消し、アリスとセトは暗黒街の広場に残された。
夜になるにつれて賑やかになっていくその場で、何も口に出すことができない。
その沈黙を破ったのは——今まで鳴りを潜めていた、エクスの声。
「やったな! アリス!」
「きゃあ!」
急に後ろから抱きつかれ、思わず声を上げる。
「これでイヴに会いに行けるぞ! 今すぐに行こう!」
瞳を輝かせて城に向かおうとするエクスを、慌てて静止する。
「ちょ、ちょっと待ちなさい。今から猊下に会いに行くつもり? アダム殿下のことを放っておけないわ!」
「何でだ? 俺たちの目的は達成されただろ?」
「そういう訳にはいかないわ。このままじゃ、アダム殿下は親衛隊に捕まって、もっと酷い目に遭うかもしれないじゃない!」
「アリスには関係ないだろ?」
「そ、そうかもしれないけど……」
言いながら、セトの方へと視線を向ける。セトは呆然としていたが、アリスと目が合うとはっとしたように動き出す。
「にっ、兄様を……兄様を追わなくちゃ!」
「セトも待って! とにかく冷静になりましょう!」
今にも走り出さんとするセトの手を掴み、アリスは言葉を続ける。
「今からアダム殿下を追っても、私たちの足じゃ追いつかないわ。このまま親衛隊から逃げ続けるのも難しいし、そうなると……今は王妃殿下の話を聞きに行った方がいいと思うの」
「アリス……」
セトは少し考えるような仕草をして——心が決まったのか、アリスの目を見て頷く。
「解った。兄様には説得は無理だって言われたけれど……俺は、諦めない。王妃殿下に兄様は悪くないって解ってもらえるように、俺が話をする」
「……ええ、そうしましょう」
正直、アリスにはアダムとベアトリーチェの確執は解らない。だが、アリスの脳裏に浮かぶベアトリーチェは、そんなに悪い人に思えないのだ。
王都を思う、強く、素敵な女性。その印象は、今でも変わっていない。
きっと、ちゃんと話をすれば解ってくれる——その可能性に、賭けたいと思う。
「エクス、いい? 私はセトと一緒に王妃殿下に会いに行くから、エクスは大人しく城の前で待っていて?」
「……アリスがそうしたいなら、そうすればいい」
少し不貞腐れた様子で、エクスが答える。
「解ってくれてありがとう……何かあったときは、頼むわね」
エクスに微笑みを向けた後、暗黒街の広場の先を指し示す。
「セト、あそこの路地を行けば、城の前に出れるはずよ。行きましょう」
「ああ、解った……!」
アリスはエクスの手を引いて、セトよりも先に路地へと踏み入る。
辺りはすっかり暗くなり、狭い路には明かりもついていない。不安で鼓動が速くなり、繋ぐ手を強く握る。
前へと進み、曲がり角に差し掛かった時——
エクスと繋いでいる反対側の手を、ぐい、と強く引かれる。
「……セト? どうしたの?」
振り返ると、そこには真っ青な顔をしたセトが立ち尽くしている。
「ア、アリス……駄目だ」
「駄目? 何が?」
「なんか、来る」
「へ?」
セトはがくがくと震えながら、アリスの行く先を指差す。
「その路の先……やばいのが、来る」
◇ ◆ ◇
セトたちに別れを告げ——アダムは一人、王城へと向かう。
(ああ見えて、セトはしっかりした子だ。きっと、俺なんかがいなくても大丈夫だろう。それよりも、イヴを救わなければならない。イヴには、俺しかいないのだから——)
息を潜め、城壁に身を隠す。
正門を守備するのは、二人の衛兵だ。
アダムはしばしの間、待つ。フードを深く被り直し、次に左側に立つ衛兵が、よそ見をした瞬間——
風のような速さで近づき、一人目の衛兵の首元を強く打つ。
「がっ……!」
「なっ!? 何者だ!?」
二人目の衛兵が異変に気付き、構える。
すかさずアダムは、衛兵の腹部に容赦なく蹴りを入れる。
「ぐうう……っ!」
呻き声を上げ、倒れる衛兵。正門は、あっという間に無防備状態となる。
「……この程度だとはな。ずいぶんと平和ボケしているものだ」
アダムは堂々と門を開け、城の内部へと入っていく。
煌々と輝くシャンデリアの割には、薄暗く感じる城内。
昔は、この城が好きだった。
尊敬できる父がいて、頼りになる部下がいて、愛する弟がいるこの城が。
それが今となっては、ベアトリーチェの虚栄の象徴のように感じられて、吐き気しかしない。
アダムは足音を立てないようにして、廊下を進んでいく。だが、衛兵の一人とも出くわさない。この平和なエディリアで、城に攻め入ってくる敵なんていない。警戒態勢なんてものは、取られていないのだろう。
(俺が戻ってくることも、想定されていないのだろうか……)
思案しながら、更に奥へと進んでいく。やがて見えてきたのは、この城で二番目に豪勢な装飾がされた、立派な扉。
(ここが、父上の部屋か……)
アダムは意を決して、扉を叩く。
「父上、アダムです。母上に内緒で、ここまで来てしまいました。どうか、お話できないでしょうか」
声を掛けたが——返事は帰ってこない。
扉に手を掛けるが、内側から鍵がかかっているようで開かない。
「父上……ご無礼をお許しください」
息を吸い、己の足に力を込める。
「……はああっ!」
力一杯、王の間の扉を蹴る。
思ったよりも簡単にひしゃげた扉の隙間に手を入れ、無理やりにこじあけると、内部へと入る。
贅を尽くした王の間。壁には金の彫刻や武器が飾られていて、最高級品の絨毯が敷かれている。中央に位置する巨大なベッドにいるはずの父・オーディンの姿は——そこにはなかった。
「父上……?」
辺りを見回しても、人の気配はない。
アダムは何か父の手掛かりはないかと、辺りを捜索する。
こうやって、父の部屋に勝手に入るのは、初めての経験だ。申し訳ない気持ちと、少しの好奇心。アダムは手当たり次第、部屋の物に触れていく。
すると、ベッドの横の本棚の横から——わずかに、冷たい風を感じる。
(……隠し扉、か)
この平和な世でも、避難用の通路ぐらいはあるものだ。いざという時に使えるかもしれないし、何処に繋がっているのか確認しておいた方がいいだろう。
アダムは本棚に手を掛け、力を込めて引き寄せる。
本棚は音を立てて動き、目の前に通路が現れる。
(中は……暗いな)
人ひとりが、やっと通れるぐらいの幅だ。父の部屋にあったオイルランプを拝借し、火をつける。壁を伝いながら、慎重に進んでいく。
しばらくすると、地下へと続く階段が見えてくる。
(外ではなく、地下に繋がっているのか? 俺の知らない宝物庫か何かでも、あるのだろうか……)
できるだけ足音を立てないように注意しつつ、アダムは階段を下っていく。
ひんやりとした空気が、肌に触れる。どこからか音が反響しているのか、それは低い唸り声のように聞こえる。
随分と長い時間、下っていた気がする。
気が滅入りそうになった刹那——ようやく階段が途切れる。
手にしたオイルランプを掲げ、辺りを探る。
でこぼことした岩壁で、調度品などは見当たらない。先が見えず、外に出たのかと思うほどに天井の高い、広い空間だった。
すると、何処からか妙な音が聞こえてくる。
先程、階段を降りている時にも聞こえた、唸るような声。
息を殺して耳を澄ますと、何かが呼吸をしていて、そこにいるような気配を感じる。
「……何か、いるのか?」
アダムは気配を頼りに慎重に進む。すると、見えてきたのは大きな牢。
その牢の中にいたものを見て——アダムは言葉を失う。
最初は、数メートルにも及ぶ、黒い鉄の塊でもあるのかと思った。
だが、それはよく見ると、両膝を折り曲げて座っている、人のような形をしていた。
普通の人の比率よりも大きな頭部には、鋭い牙の生えた口と、額まで広がる複数の赤い目玉。細長い胴体からは野良の悪霊特有の黒い血がドロドロと流れ出ていて、折れ曲がった足は黒い触手で覆われている。肩甲骨にあたる部分からは、枝分かれするように巨大な腕が何本も生えていて、人と蜘蛛が合体したような、不気味さがある。
見るも恐ろしい異形が、狭い牢の中、閉じ込められている——
「あら……見つかっちゃったわね?」
突然、後方から女の声が響く。
姿を現したのは、アダムが今この世で最も憎い存在——ベアトリーチェ。
「これは……何だ?」
もっと、言いたいことがあったはずなのに。口から出たのは、それだけだ。
「見て解らないの? 悪霊よ」
「悪霊って……何故、こんな巨大な悪霊が……城の地下にいるんだ?」
「何故って、私が飼っていたからに決まっているじゃない」
ベアトリーチェは、平然と口にする。
「ロメオは優秀だったけどね。ちょっと好き嫌いが多すぎたのよ。美しい女じゃないと喰いたくないだなんて……ね」
「お前の言葉の意味が解らない……何を言っているんだ? 一体……」
額から、汗がつたう。怒りか恐怖か解らないが、声が震える。
そんなアダムを気にする様子もなく、ベアトリーチェはいつもと同じ——自身に満ち溢れた顔で告げる。
「だから、ロメオが食べ残した人間は、それが全部、食べたの。これが、貴方が必死に探してた、私が失踪事件の首謀者である証拠よ……どう? 満足した?」
ベアトリーチェの黒い瞳が、アダムを見据える。
同じ人とは思えないほどに、冷たく、非情な瞳。
恐怖する心を制し——絞り出すように、声を出す。
「……何でなんだ……?」
「何がかしら?」
「何でお前は……こんな、人ならざる力を使ってまで……今の王都を、どうしたいっていうんだ?」
「どうしたいも何も。私は、王都を守りたいだけよ。当然、これに喰わせた者も、魔女と犯罪者だけ。誰かが浄化しないといけないの、この地を。主や天使に代わって……それを私がやっているだけよ」
あくまでも自分が正しいというような口調で、ベアトリーチェは語る。
「そこまでして、あんたが今の王都を守りたい理由は何だ?」
「質問の意味が解らないわ、アダム。子が親を愛するのに、理由が必要?」
ベアトリーチェは深く溜息を吐く。天を仰ぐようにして、言葉を続ける。
「今もこの地には、悪霊が増え続けている。主が、天使が、この地を見捨てたと言うものは多いわ。でも……それが何だって言うんです? そんな気まぐれで、愛する王都を奪われてなるものですか。だから私は、誰に何と言われようと……この地を守る、その『覚悟』があるわ」
「そうやって自分を正当化して、俺たちや民を……騙し続けるのか」
「騙す? 嫌だわ。天使のお告げは必要悪。現に、皆幸せに生きているじゃない」
「違う!」
アダムは声を荒げる。
「お前にも解るだろう! こんなことを続けなくても……人は自分たちで幸せになれる! イヴだって天使だっていなくても、平和な世は実現できる!」
「青いわねえ、アダム。人はそんな崇高な存在ではないわ。この地にイヴや天使という存在は必要よ。今、それを失ってみなさい……嬢王蜂を失った蜂の巣のように、たちまち崩壊するでしょう」
「民を人として見てもいないお前に何が解る!」
「人には、人ならざる力……霊的権威が、不可欠だわ。何故、解らないのかしら。悲しいわ、アダム。貴方が解ってくれたら……こんなこと、しなくても済むのにね」
ベアトリーチェの右手が、何かを掴む。
石壁に取り付けられたレバーのようなものを、おもむろに下げる。
ギリギリという鉄音を響かせて、牢の格子が上がっていく。
グルルルル……!
地響きのような唸り声を上げ、巨大な悪霊が解き放たれる。曲がった足を引きずりながら、複数の手を地面につけて、ずるずると前へ進んでくる。
「王都の平和に不要なものは消す……貴方も、例外じゃないわ」
微笑みながら、ベアトリーチェが宣告する。
「……俺の始末が終わったら、イヴのことも消すつもりか!?」
「嫌だわ。さすがに『イヴ』を喰わせたりしないわよ。あの子には正しく死んでもらわなきゃいけないもの」
アダムは背中の天使武器を抜き、身構える。
悪霊ではなく、今すぐベアトリーチェを斬り殺してやりたい所だったが、そう言ってもいられない。今にも目の前の巨体が、自分に飛び掛からんとしている。
そんな中、ベアトリーチェのからりとした声が耳に響く。
「それより、アダム。セトとアリスさんは順調? 貴方、仲いいでしょう。教えて頂戴」
「は……?」
何故、今この状況で、セトとアリスの名前が出てくるのか——
考える間もなく、ベアトリーチェが言葉を続ける。
「あの子たちを、私の保護下に置こうと思って。だって、きっと……色素の薄い、美しい子どもができるでしょう? 楽しみよね、アダム」
——その言葉を聞いて、確信した。
ああ、俺は間違えていたんだ。
もっと早くに、こいつを殺さなくてはいけなかった。
こいつに、少しでも、人の情があると思っていた、俺が馬鹿だった。
グウウ……ガアアアアアアアアアア!!
目の前の悪霊が咆哮する。
「くそっ! 後悔するのは後だ!」
今まで数十、数百の悪霊を斬ってきた。それでも、こんなに巨大な悪霊と対峙したことはない。
アダムの脳裏に、己の死が浮かぶ。以外に冷静な自分自身に対して、少しだけ笑いがこみ上げる。
だが、最後まで諦めるわけにはいかない。己の帰りを待つ人がいる限り。
——お帰りなさい、兄上。
その言葉を聞くためならば、何だってしよう。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になる、と思っていただけた方は、ブックマークや、↓の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎評価等、応援よろしくお願いします。