145.強引に唇を奪った。
カロリルグ王国の首都を散策していると、前方から女性の悲鳴が聞こえてきた。
周囲の人々も何事か、と悲鳴のした方へ向く。
俺は既に視界の中で行われた犯罪を目撃していた。
白昼堂々の切り裂き魔。
ショートソードを振り回しながら、男は錯乱した様子で周囲の人々を切りつけようとしている。
悲鳴の連鎖。
阿鼻叫喚の中、俺は切り裂き魔に〈寄生〉して〈麻痺眼〉を叩き込む。
ビクンビクン、と痙攣しながらその場に硬直する裂き魔。
すぐさま俺は接近して、男の手からショートソードを取り上げる。
すると逃げ惑っていた人々の中、男性陣が一転して男に群がった。
男はあっさりとうつ伏せに押さえつけられて、無力化された。
「いやあ、あんたが刃物を奪ってくれて良かったよ」
「勇気あるな、お前さん。この国のもんじゃなさそうだけど?」
口々に俺を褒め称える男性陣をよそに、俺は切り裂き魔に傷つけられた女性のもとへと駆けつけた。
女性に縋り付きながら「お母さん、死んじゃやだー」と泣き叫ぶ女児は娘だろう。
「待ってて今、お母さんを助けてあげるから。――時間遡行。局所、ありし時に戻せ。肉体時間操作」
俺は努めて優しい声を出し女児をなだめてから、〈時間:治癒〉を使って母親の怪我を巻き戻した。
みるみるうちに傷が塞がっていく。
対象がたったひとりで短時間の巻き戻しなら〈福音の祈り〉より地味な〈時間:治癒〉の方が目立たないと考えての選択だった。
どうやら女性の怪我は重症だったらしく、衛兵や魔術師の到着を待っていたら助からなかった可能性が高い。
今日は良いことをしたな、と思いながら立ち上がる。
「う……、あなたは?」
「まだ起き上がらない方がいい。それと娘さんを抱きしめて安心させてあげてください」
「はい。ああ、痛みがなくなって……?」
「怪我は治しましたから。それじゃあ、俺はこれで」
「待ってください、お礼を――」
「いえ、必要ありません」
そのまま母娘の横を通り過ぎて、その場を離れようとする。
「せめてお名前だけでも!!」
「名乗るほどの者じゃありません」
一度は言ってみたい言葉を言えた満足感に浸りながら、俺は事務所に戻った。
格好良く立ち去った手前、その僅か一時間後にあっさりと事務所に現れた母娘に頬が熱くなる。
……恥ずかしいことをしてしまったな。
名乗るほどの者じゃありませんと告げたにも関わらず、俺は名乗らざるを得ない状況に陥っていた。
「この度は私のことを助けて頂き、ありがとうございます。私はセエレ。娘はニアと言います」
「……俺の名はミカワヤです」
「本当にありがとうございました。ミカワヤさんは私の命の恩人です。この子をひとりぼっちにしないで済みました」
「おじさん、ありがとう!!」
深々と下げられたセエレのお辞儀に恐縮して顔を上げてもらった。
「立ち話もなんですから、応接間にどうぞ。お茶でもお出ししましょう」
「まあ、かえって恐縮ですわ。でもお邪魔します」
「お邪魔します!!」
セエレとニアを応接間に通す。
ふかふかのソファだったのでニアが座ると、大声で「わ、この椅子やわらかい!!」と大喜びだ。
セエレは「あまり大声を出したらご迷惑よ」と言いつつ、座る前に触れたソファに手が沈み込むのを見て目を丸くした。
「こんな高級な椅子に座ってもよろしいのでしょうか?」
「もちろんですとも。どうぞお掛けください、セエレさん」
俺は手早くお茶の準備をするフリをして〈アイテムボックス〉から熱々のお茶を取り出した。
せっかく幼い子供がいることだし、お茶菓子もつけよう。
固形チョコレートはエチゴヤ商会の主力商品だから、出してもおかしくはない。
「どうぞ、粗茶ですが。それとこちらはウチの商会が扱っているお菓子です」
「まあ、これはご丁寧に――」
「お菓子!?」
ソファに沈み込んだニアがバタバタしている。
どうやら小さなニアはひとりでソファから起き上がれないようだ。
セエレが抱き起こすと、ニアはローテーブルの皿に置かれた黒い物体を見て「これがお菓子なの?」と少し不安げな声で問うた。
この国には地球人が浸透していなかったので、チョコレートは一般的ではない。
もっともこの国に流れてきた地球人がチョコレートを持ち込んだとしても、それは貴族や王族のもとなので、見るからに一般人であるセエレ母娘が知る由もないだろうとも考えられるが。
「これは隣国アブラナサント王国で流行っているチョコレートというお菓子なんだ。とても甘いから食べすぎないようにね」
ニアは「甘い」という言葉に釣られたのか、チョコレートをひとつ口に放り込んだ。
「わ、甘い!! お母さん、これすっごく甘いよ!!」
「まあ本当ね。凄く香りが良いお菓子です。……これ、お高いのでは?」
「値段なんて野暮なことは気にしないでください。後でお金を払え、だなんて言いませんから」
「ふふふ、それは嬉しいわ」
どうやらセエレもチョコレートを気に入ってくれたようだ。
セエレに注意されながらニアがパクパクとチョコレートを食べていく。
俺はニコニコとした営業スマイルを崩さない。
チョコレートを食べ終えて満足したニアは、今度はソファに沈み込み感触を楽しみ始めた。
「娘がはしたなくてすみません」
「いえ、いいんですよ。おいくつですか?」
「三歳になります」
「そのくらいの子なら、はしたなくて当然でしょう。お気になさらず」
「まあ。ミカワヤさんは子供が好きなのね」
話は本題に入る。
「切り裂き魔から助けて頂き、ありがとうございました。ミカワヤさんは命の恩人です」
「大げさですよ。私はちょっとした治癒魔術が使えるだけで……」
「いいえご謙遜なさらないで。あれは致命傷でした。もう助からないと思っていたくらいに。……この子をひとりぼっちにせずに済んで、感謝もしきれません」
「ニアの父親について聞いてもよろしいでしょうか」
「ニアが生まれてすぐに事故で亡くなりました。大工でしたが、高所から落ちてそのまま……」
「ご愁傷さまです」
「いいえ、もう三年も前のことですから」
写真もないこの世界ではニアは父親の顔を知らずに育ったのだろう。
セエレは優しげな眼差しでニアを見つめている。
「しかし物騒ですね。白昼堂々と切り裂き魔とは」
「はい。最近、首都ではおかしなクスリが出回っているとかで。衛兵さんが言うには、あの切り裂き魔の男もクスリのせいで錯乱していたのだとか」
「クスリ、ですか……」
違法薬物がはびこっているという情報は知らなかったな。
本体と記憶共有している俺が知らないのだから、地元の直接情報も侮れない。
俺は暇しているんだから、常日頃から情報収集を心がけるべきかもしれないな。
「お母さん、お腹すいた」
「まあ、さっきあれだけお菓子を食べたのに……」
「でもすいた」
セエレは困ったような表情でニアをなだめようとしている。
夕食には少し早いが、早すぎる時間でもない。
日が落ちれば店も閉まる。
「よろしければ一緒にお食事でもいかがでしょう」
「え、でも……」
「これも何かの縁です。セエレさんとはまだお話したりない気がしまして」
「まあ……」
頬を染めるセエレ。
〈簡易人物鑑定〉を使ったから知っているが、セエレはまだ十九歳だ。
若い未亡人、顔良し、ちなみに胸はそこそこある。
正直なところ、下心がないわけではない。
……女には困っていないんだけどな。
しかしひとり寂しい事務所暮らしは飽きる。
アブラナサント王国とカロリルグ王国は陸続きの隣接国家だが、人類の特徴としては両国に明確に差があった。
アブラナサント系は白人が多く、ヨーロピアンな雰囲気の人が多い。
しかしカロリルグ王国は黄色人種が多く、アジア系の雰囲気があるのだ。
セエレさんは名前や服装を取り替えたら、日本人の女子大生に見えることだろう。
そこに惹かれた。
ちょっと豪勢な料理屋で腹を満たしてから、なんやかんや恐縮しまくりのセエレを日が落ちているからと家まで送り届ける。
ニアははしゃぎ過ぎてセエレの背中で眠っていた。
セエレの家は小さいながらも一戸建てだった。
大工だった夫と仕事仲間が格安で建ててくれたのだと、伏し目がちに呟く。
「――お茶でもいかがですか? ミカワヤさんのところで飲んだような高級なものではありませんし、お茶菓子も大したものはありませんが」
「そんなことを気になさらないで。是非お邪魔させてください」
俺はセエレの家に上がり込む。
セエレはニアを寝室に寝かせてから、お茶の用意を始めた。
俺は背後からセエレを抱きしめる。
「だ、駄目です……ミカワヤさん。ニアが、起きてしまいます……」
「ニアちゃんが起きなければいいんですね?」
「…………それは」
強引に唇を奪った。
舌を入れて唾液を交換する。
抵抗は一切、なかった。
その夜、セエレは声を必死に押し殺しながら久々の男を受け入れた。