111.夜に話す時間をくれるかな?
朝の仕込みの最中のことだった。
夜明け前の澄んだ空気の中、俺はピクルスを漬けていた。
未だに酒の方は触らせてもらえない。
ならばということで〈醸造〉スキルを活かしてピクルスを漬ける酢液の方に工夫を凝らすことにしたのだ。
一般的に日本では歯ごたえの良い野菜を酢に漬けたものがピクルスとして知られているが、海外では酢にスパイスを加えたものがある。
本体に料理に関する書物を頼んでおき、〈代理人〉に読ませて記憶の統合で知識を得た結果、この世界におけるスパイスを加えたピクルスの作り方を知った。
美味しく漬かるといいな、と思いながら瓶に野菜を詰め終えて棚に戻すと、やや眠そうなクロエがやって来た。
「コウセイさん、オーバン商会の人がいらしています」
「夜明け前だぞ? 非常識だなあまったく。仕方ない、行ってくるよ。ありがとう」
手を洗ってから食堂の方へ行くと、やや悄然としたオーバン商会の会頭レイドリック・オーバンが待っていた。
「おはよう、早朝からすまない」
「いえ。なにかあったんですか?」
「……うむ、実は今度、領主様の末娘が他家に嫁入りすることになってな。それでその……シルクのドレスをご所望なのだ」
「はあ」
「すまないがシルクを売って欲しい。できるだけ急ぎなのだ」
「そうは言いましても、俺はこの通りこの宿に婿入りしましたからね。王族御用達の商人とも最近、会っておりませんし――」
「そこをなんとか頼む!! この通りだ、今回だけでいい!!」
レイドリックは深々と頭を下げて頼み込んでくる。
これは余程、切羽詰まっている様子だ。
さてどうしたものか。
王族御用達の商人か……本体に用意してもらうか?
実のところ、王族御用達の商人を用意するのは難しいことではない。
魔王城で量産していたチョコレートの在庫があるからだ。
地球人も〈闇市〉もない今、チョコレートを入手できるのは俺だけ。
ちょっと王城に出入りするのに手間取るかもしれないが、チョコレートを手土産にすればあっという間に王族御用達の商人の地位をゲットできるだろう。
ダブついているチョコレートの在庫を売りさばくのも悪くない。
〈闇市〉の手数料がなくなったから、何かしら現金収入を得る手段は欲しかったところだ。
手間は、ひとり〈百面相〉で名前と顔を変えた〈代理人〉を派遣するだけ。
うん、悪くなさそうだ、本体に頼んでみるか。
しばし考えた後、俺はレイドリックに頭を上げるように言った。
「今回だけということなら、なんとか渡りをつけてみますよ。シルクが手に入ったらオーバン商会に届ければいいんですよね?」
「ほ、本当か!? ありがとう、コウセイ。シルクを入手できなければ、ウチの商会が危うかったのだ」
話によると以前、卸したシルクは領主に献上したらしい。
その代わりに様々な便宜を図ってもらったとかで、商会として大きく成長した。
しかし今回、領主はまたシルクをご所望したらしい。
特に可愛がっている末娘の婚儀のためにシルクでドレスを仕立てたいと言い出したので、レイドリックは大慌てで俺のもとへやって来たというわけだ。
一方的に事情を語った後、「それではくれぐれもよろしく頼む」と言い残して、レイドリックは立ち去っていった。
やれやれ……仕込みに戻るか、と厨房に向かうと、心配そうな顔をしたクロエが待っていた。
「コウセイさん、本当に大丈夫なんですか?」
「何がだい?」
「いえ、コウセイさんが宿でそんな立派な商人と会っているところ、見たことないですし。シルクを売ったのは事実なんでしょうけど、何か危険なことをしていたりしてませんか?」
「…………」
「魔力のこともそうです。宿からほとんど出ないのに、日に日に魔力が増えていって……レベルが1というのも嘘ですよね。夫婦の間で隠し事があるのは、ちょっと悲しいです」
「…………そうだね。クロエには本当のことをそろそろ教えておいた方がいいのかもしれない。夜に話す時間をくれるかな?」
「はい。それじゃあ夜に。待ってます」
パタパタと厨房から出ていくクロエ。
さて本体に〈ホットライン〉で報告しておくか。
クロエにどういう説明をするか、そして王族御用達の商人の用意のお願いをしなければならない。