三年ぶりに海外留学から帰ってきたら、お嬢様からのアプローチがカゲキなんだが?
まえがき
皆様からの反響によっては、連載化も検討しています。
舞台は明治・大正期ですが、日本っぽい国だと考えてください。服装等の時代考証は、真面目にやると「萌え」が無くなるのでご愛敬。
「三年ぶりの祖国か…………」
もうすぐ帝都の港に着岸するとアナウンスがあった。
甲板にでて潮風を浴びる。
俺が乗る船はもうすでに湾内に入っていた。
一か月半に及ぶ船旅の、ここまでの寄港地でも青い山並みは見てきたが、それが父祖の国のものと分かると感慨も一入である。
俺はここらで一旦、今までのことを思い返してみることにした。
俺は水上裕二。
生まれは片田舎の農村だった。
だが幼い頃に読んだ本に登場する広い世界憧れ、いつかそこに飛び立つことを夢見た。
俺の生まれた地区には、如月家という名士がいた。
そしてその家は、地元の優秀な若者が都会に出て高等教育を受ける支援をしていた。
中学の成績がちょっと優秀だった俺は、如月家の支援のもと帝都の高校に進学した。
如月家が帝都に構える屋敷に住まわせてもらい、学費の面倒まで見てもらった。
屋敷の使用人たちは皆親切で、主人の一家も皆大らかな性格であった。
特に如月家の末娘、桜お嬢様のことはよく覚えている。
濡れ羽色の艶やかな髪に、紫紺の瞳。
まるで作り物かと疑う程に可憐な少女だった桜様は当時、帝都にある貴族学園の初等部に通われていた。
今年は、中等部に入学なさった頃だろうか。
まぁ、いずれにせよ、俺とは身分が違い過ぎる。
お目に係れただけでも大変光栄なのだ。
おっと、話題が逸れてしまった。
話を戻そう。
事は三年前に遡る。
高校の成績がちょっとばかし良かった俺のもとに、国から海外留学の話が回ってきたのだ。
だが、話はそう簡単ではなかった。
渡航期間は三年間、さらに費用は個人負担というものであった。
その上、俺に不幸が重なる。
田舎の親父が病気になったというのだ。
もう留学どころではない。
すぐにでも学校を辞め、働いて実家に仕送りを始めなければならなかった。
俺は如月家の御当主様に、留学の件を断ると話した。
まるでこれまで支援してくださったことを裏切るように感じ、沈痛な気分だった。
だが御当主様は、俺に渡航しろとおっしゃった。
事情はすべて把握していたようだ。
金のことなら後で考えろ、とのことだった。
そして俺のエストランド行きが決まった。
一か月以上に及ぶ船旅から来る疲労に加えて、ホームシックやカルチャーショックもあったが、それらをなんとか乗り越え、がむしゃらに頑張った。
エストランドの進んだ科学技術を一つでも多く故国に持ち帰ろうと努力した。
こんな田舎の小僧に大金を積んでまでエストランドへ送り出してくださった如月家の御恩に報いようと必死だった。
その甲斐あってか、三年間で無事、目標としていた学位も取得し、今まさに帰国の途に就いたのだ。
船着き場のタラップを蹴ると、俺はその足で真っ先に如月家のお屋敷に向かった。
先月の手紙で『そろそろ帰国いたします』とは伝えたのだが、三年ぶりの来訪に、俺だと気づいてもらえるだろうか。
屋敷の前までたどり着くと、庭先で使用人が一人掃除をしていた。
見知った顔だった。
彼女の方も俺に気が付いたようだ。
「裕二……さん?」
「はい」
俺がそう応えると、彼女は掃除道具も投げ出し、大声で叫びながら屋敷に走り出していった。
「裕二さんが帰ってきましたよ~‼」
そこからは、てんやわんやの蜂の巣をつついた様だった。
荷物を取られ、部屋に通され、そのままの勢いで風呂にまで入れられた。
あまりの歓待ぶりに俺の方が引いてしまったほどだ。
夕時には、宴会まで用意されていたのである。
だが、ここで羽目を外してはいけない。
夜、御当主様の書斎に通された後、俺はこれまでの援助について丁重に礼を述べた。
そして今後の仕事の依頼も受けた。
これからは、俺がお返しをするべきだろう。
そう、堅く誓って部屋を後にした。
俺は寝室に戻った。
今後も如月家から仰せつかった仕事をするため、帝都に居残ることになる。
そこで俺にも部屋があてがわれることとなったのだ。
厠に行った後、もう灯を落とそうとしたとき、部屋の外から俺を呼ぶ声が聞こえた。
「裕二さん」
若い女性の声だった。
どこかで聞き覚えのあるような、しかし、それよりも幾分か大人びた声だった。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
そういって入ってきたのは、見覚えのある少女だった。
「桜さんかい?」
「はい」
「大きくなったねぇ」
そういうと彼女は、小さくはにかんだ。
桜お嬢様だった。
まるで、俺がエストランドへ行く時の前のまま、背丈だけ伸ばしたようだった。
だが当時より、少し色っぽくなったような気がした。
「こんな夜更けにどうしたんだ?」
「それは、裕二さんと少しお話がしたくて……」
「あぁ、さっきのどんちゃん騒ぎの最中じゃあ、話はしにくいだろうしね、いいよ」
その後、桜さんと数刻に渡って留学で体験したことを語った。
だんだんと夜は更けていった。
桜さんが切り出した。
「ねぇ、裕二さん。今晩は一緒の部屋で寝ませんか」
「えっと……、それは……」
俺もそれが不味いことだと分かっていた。
如月家にはこれまでにも散々ご迷惑をかけてきたのだ。
御恩を仇で返すわけにはいかない。
「桜さんは、もう十六にもなりますから……、」
等と反論も試みた。だが……、彼女の、
「ねぇ、いいでしょう?」
「昔は一緒の布団で寝たではありませんか?」
「大丈夫です……、それとも、私と一緒は、お嫌でしょうか?」
……という言葉からか、はたまた、俺の睡魔と彼女の根気に押されてか、同じ部屋どころか同衾と相成ったのだ。
翌朝、目が覚めた。
船室と違ってよく眠れる。
今まで生活拠点を点々としてきた俺は、今さら見慣れない天井に驚くことはなかった。
ガバッと掛け布団を剥ぎ、伸びをすると、下から小さな呻き声が聞こえてきた。
「うぅぅ……、」
桜さんだった。
ここで昨夜のやり取りを思い出し、背中に一気に汗をかく。
この状況は不味い。かなり不味い。
嫁入り前の娘と……、しかも平民の男と…………、誤解されかねない。
御当主様からの信頼も失いかねない。
夜着姿の桜さんは非常に眼福……、失敬……、目に毒だが、その小柄な体躯をゆすって目を覚まさせた。
「ふぁ……、ゆうじしゃん……」
そういうと桜さんは、俺の腕を引いて、ガバッと俺の上にかぶさってきた。
夜の間の、桜さんの甘い香りは非常に危険だ。
彼女は、腕や足を俺に絡めて更に密着してきた。
俺は、彼女の両肩に手を当てて、再度その身体をゆすった。
「桜さん。寝ぼけてる場合ではありませんよ」
俺がそういうと、彼女は手足に込める力をより一層強くしてから俺の耳元でささやいた。
「寝ぼけているわけないじゃないですか」
「えっ……」
「寝ぼけてなんかいませんよ、裕二さん」
「いえ……、しかし、この状態で見つかったりしたら……、」
「構いませんよ。裕二さんにもお咎めは無いでしょう」
「その……、一体…………」
「朝の支度をしてきます」
そういって彼女は、部屋を出ていった。
放心状態の俺一人が取り残された。
その日は悶々とした気持ちを抱えながらも、午後からは、今度お世話になるところへご挨拶に伺った。
帝国鉄道省である。
御当主様は政府内での影響を強めようとして、このところ省庁に次々と人を送り込んでいる。
俺は簡単な説明を受けた後、夕方にお屋敷へ戻った。
玄関で出迎えたのは、桜さんだった。
「裕二さん、おかえりなさい」
「はい、ただいま帰りました。お出迎えありがとうございます。もう学校は終わったんですか」
「はい、今日は早かったんです……、もうお風呂が沸いていますよ」
「そうなんですか? こんな早くにお湯をいただいても……」
「えぇ、構いませんよ」
俺は部屋に荷物と上着を置くと、着替えをもって浴室に向かった。
高校時代、ここで泊めていただいていたので風呂の場所は分かる。
当時は、屋敷の主人たちが入った後が下宿生たちの入浴時間だった。
だが、桜さんが入れというのなら、こちらの時間の方が都合が良いのだろう。
俺は少し大きめの湯船にゆったりとつかりながら、桜さんの昔のことを思い返していた。
中学卒業後、俺はこの屋敷にやってきた。
当時この屋敷には、十数人の下宿生に加えて、御子息方がいらっしゃった。
今年度も下宿生はいるが、如月家のお歴々は、もう嫁入りや出仕などなさって、今この屋敷に残っているのは桜様と若旦那様、そして御当主様のみになった。
如月家の御子息方の中でも、桜お嬢様は、特におてんばだった。
俺が屋敷にやってきた初日、使用人たちが大きな楠の木によじ登ったり取り囲んだりして何か騒いでいた。
何事かと聞けば、如月家の末娘が木登りをしてそのまま降りられなくなったとか。
なんと間抜けなことかと苦笑しながらも、地元で木登りの経験くらいはあったので、俺が木に登った。
あと、五十センチほどのところまで来た。
「大丈夫ですよお嬢様。こちらまで来てください。ゆっくり、ゆっくり……」
本当はお嬢様のところまで行きたかったのだが、枝の太さからして、小柄な少女ならまだしも、俺が枝の先まで行くと、折れてしまいそうだった。
お嬢様は、じりじりと、小刻みに枝の上を必死ににじり寄って切る。
木の袂では、使用人たちが固唾を飲んで見守っている。
もう、手が触れあいそうになったその時、
『メキッ』
という嫌な音がした。
『キャー』
という、悲鳴が上がる。
とっさの判断で強引にお嬢様を抱きかかえると、枝が途中から折れて落ちていった。
俺はお嬢様をおんぶしたまま木を降りた。
季節は春先にもかかわらず、すべて終わったころには滝汗だった。
後ほど桜さんは、御当主様にしこたま怒られたと言っていた。
だがそれ以来、何かと一緒に遊んでくれとせがまれるようになった。
桜さんは、乳母から、
「裕二さんはお忙しいのですから、あまりご迷惑をかけるもんじゃありませんよ」
などと言われていたが、俺としては、大した労力でもなかったし、なにより、桜さんは可愛かったので、しばしば連れ立って街へ繰り出したりしたのはいい思い出である。
俺は身体を洗おうと、一旦浴槽を出た時、浴室の扉を開く音がした。
長湯し過ぎたかな?
「あっ、すみません。すぐに上がりますので……」
と言って出入り口を振り向くと、俺は固まった。
出入り口に立っていたのは、桜さんだった。
「お背中を流しに参りました」
俺は丁重に断ろうとした。
貴族でもわざわざ人に身体を洗わせる者は少ない、まして如月家の御令嬢になど、畏れ多すぎる。
だが、桜さんはためらうことなく浴室へ侵入してきた。
妖艶な笑みを浮かべる彼女は、異様な雰囲気を醸している。
たまげた俺は、尻餅を付いてしまった。
桜さんは浴室に内側から鍵を掛けると、身を屈めてにじり寄ってきた。
あまりの急展開に、頭が真っ白になった俺は、気が付くと桜さんに押し倒されていた。
互いの息がかかりそうになったところで、背中から感じる風呂場の三和土の冷たい感触が、すんでの所で俺に意識を引き戻させた。
しばらく二人して床の上で固まっていたが、俺がくしゃみをしてしまったため、桜さんに、
「湯船に入りませんか」
と言われてしまった。
そしてなぜか、湯船につかる俺の膝の上には、桜さんがいる。
目のやり場に、手のやり場に、とても困る。
苦行だった。
ここで俺は、先ほどから気になっていたことを尋ねた。
「して、その恰好は何ですか」
「コレのことですか? 水着ですよ」
そういって桜さんは、紺色の肩ひもを挑発的に引っ張る。
「えぇ、それは知っています。エストランドの海岸で、そんな恰好をしたご婦人方は見かけましたから。ですが、こちらですと、少々露出が多いのでは?」
「えぇ、それは議論になりましたが、今年から学園でも水泳の教練が始まったのですよ」
そういうと、桜さんはガバッと身を翻し、俺に正面を向けてきた。
「どうですか? 似合います?」
俺は落ち着いて答える。
「大変お似合いですが、あまり異性に見せるものではないかと……」
すると桜さんは、そのまま密着してくると俺の耳元で言った。
「学園の授業は男女別ですよ。こんな格好を見せる殿方は、裕二さんだけに決まっているではありませんか」
翌朝、目を覚ますと、いつものように伸びをした。
昨晩は一昨日のように、夜分に桜さんが来ることはなかった。
そう思った矢先、
「おはようこざいます」
「いっ、いつのまに!」
桜さんが傍らで寝ていたのだ。
「裕二さんを起こしに来ただけですよ」
「無理に早起きなんてする必要ありませんよ。何時に来たんですか」
「昨日の、夜十一時前後ですね」
「一晩中いたんじゃないですか……」
「朝の支度をしてきます」
そういって桜さんは俺の部屋を出ていった。
心なしか足取りは軽そうだった。
「行ってきます。裕二さん」
イタズラ好きの桜さんも、学園のセーラー服に身を包めば、あっという間に清楚になる。
「はい。いってらっしゃい」
そういうと桜さんは、玄関先まで見送りにきた俺に、突然、抱き着いてきた。
もちろんその場には、俺の他にも使用人の方も幾人かいたので、俺は慌てて桜さんを窘めようとしたのだが、彼女は頑としてその手を解こうとしなかった。
一分ほど経った頃、狼狽する俺を見てクスクスと笑いながら、桜さんはようやく屋敷を出た。
今日は特に予定はない。
なので俺は、国への留学の報告書を書いたり、昨日いただいた資料を読み込んだりしながら午前中を過ごした。
昼頃、俺は御当主様の書斎に呼ばれた。
話は大体、今後の仕事についての打ち合わせだったが、最後にとんでもない質問が来た。
「ところで、桜はどんな様子かね」
俺は一瞬の間も置かず、その場にひれ伏した。
御当主様は笑顔であったが、そもそも御当主様は、いつも笑顔なのだ。
俺もまだその表情の読み方は修得していない。
質問の意図は測りかねる。
だが、桜さんの言行は、やはり筒抜けだったのだ。
俺は、土下座したまま答えた。
「はい、とてもよくしていただいております」
だが、御当主の言葉は、意外なものだった。
「その件なら、儂からは何も言わん。好きにしたら良い。それよりも、それがらみで、一つ仕事を頼みたいのだよ。とりあえず、掛けたまえ」
俺は指示に素直に従って、ソファーに腰掛けた。
「それで、内容はどのようなものでしょうか」
「うむ。今度王宮でとある祝宴が開かれるのだが、それに出席してもらいたい」
「はい」
「そして、その際なのだが……、裕二君には、桜をエスコートしてもらいたいのだよ」
俺は当然聞き返した。
「本当ですか? 御当主様、失礼ですが、私には力不足かと……」
そのとき、勢いよく扉が開いた。
「その話は私から裕二さんに言おうと思っていたのに」
桜さんだった。
「桜さん、おかえりなさい」
「はい。ただいま帰りました、裕二さん」
「桜、盗み聞きなんてはしたない真似するな」
「すみませんお父様。でも部屋の外まで聞こえていました」
そこからは、桜さんを交えて、三人で話をした。
桜さんは、自分から俺を誘えなかったことにご立腹の様子であったが、今回の夜会は、単純な事情ではなさそうであった。
話によると、桜さんには縁談が持ち上がっているそうだ。
だがこの縁談には、桜さんも、そして御当主様も乗り気ではないらしい。
お相手は橘家という名家の御曹司ではあるが、調べてみると、性格にも難があり、女性問題も起こしていた。
貴族学園の四つ上の学年にいた彼は、お嬢様に一目惚れしたそうで、桜さんを欲しがっているそうだ。
御当主も断りたいのだが、橘家は外務省と太いパイプがあり、縁談を断れば今後如月家に海外関係の仕事を回さない、と脅しをかけてきた。
御当主様はやり手ではあるが、それもこの二十年弱のこと、最近やっとこさ成果が出始めたころだ。
今後、外国とのやり取りが妨害されるとなると、大きな痛手となる。
こういった事情から御当主様は、桜さんの問題行動を見逃しているのだろう。
最後に羽を伸ばしておけとばかりに。
そしてここ最近、橘家から桜さんに会わせろと度々手紙が来るようになった。
本当は娘を表に出したくはないのだが、大勢が参加する夜会の場なら大それたことはできないだろうと、夜会には出させることにしたのだ。
そして、俺は貴族ではなく、かといって如月家の制御下にあることから、そのエスコート役に都合が良かったのだ。
最後に御当主様が忠告してきた。
「裕二君。余計なことは考えてはいけないよ。下手なことをしても、裕二君も、桜も、如月家も、誰も幸せにはならない」
俺は、何も言い返せず、ただ己の無力を悟った。
「下がりなさい」
そういって二人を退室させた後、如月家当主は深いため息をついた。
三年前、うちで書生をしていた水上裕二君は非常に優秀な青年だった。
国から海外留学の打診をもらってきたと聞いたときはたまげたものだった。
父親が病に倒れたと聞いたときは驚いたが、彼の実家の生活費など当家から見ればはした金だった。
その程度で彼の信頼が買えるのなら安いものだ。
ただ誤算は、当時まだ十三歳だった末娘の桜が、彼にすっかり惚れこんでしまったことだった。
彼の出発の日、桜が庭先で大泣きしたことは、今でもからかうと怒りだす。
桜は裕二君と結婚すると言い出したのだ。
その時、彼は機転を利かせ、
「三年後でも覚えていたら、また言って」
といったのだ。
裕二君は覚えていない様子だったが。
三年もたてば、桜だって貴族社会のことが分かってくるだろうと踏んでいた。
だが、一年たっても、二年たっても、桜の考えは変わらなかった。
そんな時だった、橘の小僧が手紙をよこしたのは。
儂だって人の親。
あんな問題児に娘をやりたくはない。
だが事は如月家に仕える多くの者の生活が懸かっている。
きっとこの事情を話せば、心根の優しい裕二君は自分の将来を捨てでも、桜を守ろうとするだろう。
だから釘を刺したのだ。
さらに桜にも言って聞かせた。
「裕二君が、すべて分かったうえで、桜への同情ではなく、本人の意思で望まない限り、結婚は認めない」
だからだろう、桜があんな強硬策に出たのは……、自分を裕二君に欲しがってもらおうという魂胆なのだ。
当主は、沈痛な面持ちで窓の外を眺めるのだった。
今日は夜会当日。
御当主様に釘は刺されたが、俺の心のモヤは晴れなかった。
馬車で隣に座る桜さんは、明るい話題に変えようと、今日の夜会の来賓の話をしている。
「今日はエストランドからオリバー伯爵が来てるんですって。裕二さんもご存じですよね」
「えぇ、向こうの大学で、伯爵の講義を受けたこともあります」
「へぇー、では顔なじみですか?」
「そこまではいきませんよ。何百人もいる聴講生の一人です。お屋敷にも何十人も門下生が住み込んでいますし」
「でも、伯爵の経営するオリバー商会は世界規模のメーカーでしょう? 今回の来訪だって、わざわざ王宮で歓迎の祝宴まで設けるのですから」
「商会の持つ科学技術のノウハウが欲しいんでしょう。それに、わが国で事業展開していただくだけでも経済的にかなりの影響がありますからね」
そうして、王宮に着いた。
「作法などは、前もってお教えしましたが、分からないことが有ったら、いつでも私に聞いてください……。さぁ、行きますよ」
そういって、桜さんは俺と腕を絡めると、宮殿への階段を登って行った。
他の貴族家への挨拶が終わるやいなや、タイミングを見計らっていたかのように、橘の御曹司が現れた。
「これはこれは、桜嬢。お久振りですね。顔を見せていただけないので心配していましたよ」
「えぇ、御無沙汰していました」
「して、そちらの貴方は?」
「水上裕二と申します。如月家でお世話になっている者です」
「ほぅ? 水上……、聞いたことのない家だなぁ」
「えぇ、平民ですので……、」
「平民? 桜嬢。このような下賤の者と関わっていては、貴方の評判も下がりますよ」
俺は、「どの口が言う?」と思ったが、コイツの表向きの評判は、「大貴族の御曹司で美青年」である。
「エスコート役がいないのなら、この私が引き受けてもよかったのに、どうです? 一曲踊りませんか」
桜はむっとしたように応えた。
「結構です。それは私が決めることです」
すると、橘の御曹司は俺たちに近づき、周りに聞こえないような小声でささやいた。
『おい、あんまり調子に乗るなよ。如月なんぞ小さな家、いつでもつぶせる。ありがたく俺の妾になればいいんだ。留学帰りだか何だか知らんが図に乗るな。所詮は平民なんだ』
そう言うと、彼は、とある男を呼んだ。
異国風の顔立ちの太った男である。
「彼はオリバー商会のスミス氏だ。この国での事業展開前に、商会の特使として来訪していらっしゃる。今後はこの国での事業で、全権を持つ支配人になるそうだ」
『スミスさん。俺の妾候補と、そのオマケの平民です』
彼は、周囲にエストランド語が分かる者が少ないのを良いことに、失礼な紹介をする。
『初めまして、ジョン・スミスです。オリバー商会の全権大使として参りました。橘家とはよくさせていただいております』
桜さんも学園でエストランド語を習っており、大体の意味は掴めたようで唖然としている。
「分かったかい、君たちがそういうつもりなら、今後如月にオリバーとの取引はさせない。進んだ工業製品は手に入らなくなるだろうなぁ」
意地の汚い奴だ。
桜さんも憔悴しきっている。
「安心しろ。スミスさんには金を渡してある。橘家の言うことなら聞いてくれるさ。せいぜいウチに尻尾を振るがいい」
会場に、そろそろオリバー伯爵が登場すると案内があった。
橘の御曹司とスミス氏は戻ろうとする。
『スミスさん。主役の登場のようですよ。行きましょう』
『そうですな。あっと…………、久しぶりに社長に会うのは楽しみですが、その前にお手洗いに行きたくなりました。先に戻っていてください』
そういってスミス氏は会場を出ていった。
橘の彼も、俺を睨みながら会場の前の方に去っていった。
俺は、震えたまま立ち尽くす桜さんの腕を引き、壁際まで誘導した。
大勢の拍手に迎えられ、オリバー伯爵は姿を現した。
国賓の紳士かもしれないが、今の私には裕二さんとの間を切り裂く悪魔に見える。
あの橘の御曹司と握手をしている。
距離が遠くて何を話しているのかは分からないが、取引の話を進めているのだろう。
エストランドがなんだ。
そんなもの何でもいい。
でもそう思いながらも震えている私は、海外企業との取引が生む利益を十分理解しているのだろう。
私のわがままで如月家が不幸になってはいけない。
裕二さんの未来を消してはいけない。
私は裕二さんの腕を今までよりもずっと強く抱きしめた。
何やら会場の前の方で、騒ぎが起き始めた。
ヒートアップしていくそれは、私にも聞こえ始めた。
『橘にオリバー製品のこの国での独占権を与えてくれるんじゃなかったのか!』
『私はそんな指示は出していない! その全権委任とやらを連れてこい』
荒々しいエストランド語の口論は私にも聞こえてきた。
「おい、どうなっているんだ?」
「橘はオリバーとつながりがあるんじゃなかったのか?」
「嘘だろ? ウチも橘に献金したのに」
周囲も騒ぎ始める。
裕二さんは、緊張した面持ちをしていた。
私がじっと彼を見つめていると、不意に微笑みかけてきた。
「桜さん、オリバー『先生』にご挨拶へ伺おうか」
私は、裕二さんに手を引かれ、会場の前まで連れてこられた。
口論の主は、やはり橘の御曹司とオリバー伯爵だった。
国賓と何を揉めているのだろうか。
『ジョン・スミスなんて人間に委任状を渡した記憶がない』
『バカな! じゃあ、アイツは誰なんだ?』
そんな口論の渦中に、裕二さんは割って入った。
『こんばんは、オリバー伯爵』
『今は忙しい、挨拶なら後に……、ってその声は?』
『水上裕二です。覚えておいでですか?』
すると、オリバー伯爵の声のトーンが変わった。
『覚えているも何も、ユージじゃないか』
『お久しぶりです、先生』
なんと、裕二さんは伯爵と面識があるようだ。
『それよりもユージ。この彼は何を言っているんだね。ジョン・スミスとは誰だい?』
『ジョン・スミスは、おそらく例の……』
『詐欺師か』
橘の御曹司がわめきだす。
『そんなわけない。あいつにいくら積んだと思ってるんだ。独占権を今さら渡さないなんて、金を返せ!』
そのとき、オリバー伯爵のお付きの者が、伯爵に何やら耳打ちをした。
『ジョン・スミスという男は、コイツか?』
伯爵がそう言うと、後ろからさっきの男が、手を縛られて出てきた。
『こいつはウチの全権委任じゃない』
『じゃあ、誰が代表なんだ。職員を送ったというニュースは見たぞ』
『あぁ、それなら……』
「私です」
手を挙げたのは、裕二さんだった。
そして、懐から一通の封筒を取り出すと、中から書状を取り出した。
エストランド語で『オリバー商会全権委任状』と書いてある。
彼はさらに続けた。
『もう先生がいらっしゃたのなら、この書状は要りませんね。お返しいたします』
私は状況が呑み込めず、裕二さんに聞いてしまった。
「どういうことですか?」
「すみません。先生の頼みでしたから断れなかったのです。ですが、もう用事は済みましたよ」
しばらく説明がされた後、今までずっと呆気にとられたままで黙っていた橘の御曹司がしゃべりだした。
『オリバー伯爵、先ほどは事情も知らず、失礼しました。改めて我が橘家と契約を結んでいただけませんでしょうか』
事情って……、あなたが騙されていただけじゃない?
『ユージ。彼はこう言っているが、いいのか?』
『ダメです。タチバナだけはやめてください、先生』
『ハッ、ハッ、ハッ。だそうだ。悪いな』
橘の御曹司は、なおも食い下がった。
『そんな、我が家ならどの家よりも金を用意できます』
だが、伯爵は断った。
『詐欺に騙されるような奴、信用できると思うか? それにユージに裏切られたら困る』
『そんな、その男は……、言っては何ですが平民ですよ。この国では何の権力もない』
『何をいっとるか? ウチの商会はユージ君と有利な条件でライセンス契約をさせてもらっとるんだよ』
『嘘だ!』
『嘘じゃない。ジュディという名前に聞き覚えはないか?』
『ジュディ? ……ここ最近、海外の雑誌で話題になっている発明家か?』
『あぁ、そうさ。その名前を古代エストランド語で発音でしてごらん?』
『えっと…………、』
『まだまだ勉強が足らんようだな、少年』
『ユージー』
私は驚きのあまり、つい、声に出してしまった。
『おぉ、そうだ。お嬢さん、よくわかったな。お名前は?』
伯爵が、こちらを向く。
『サクラ・キサラギです』
『おぉ、そうか。君がサクラか。ユージから聞いとるよ』
『本当ですか⁉』
『お転婆なお嬢さんだとか』
『………………』
翌日、オリバー伯爵が如月家の屋敷を訪ねてきた。
そして、この国での仕事に協力を要請された。
お父様はエストランド語が分からないので、裕二さんが通訳に入った。
話が始まってしばらくすると、私も応接室に呼ばれた。
なんと裕二さんは、エストランドでオリバー伯爵に弟子入りしていたらしい。
『そんな、先生の門下生なんて、たくさんいますから』
『なにをまた……、私はこれまで二十八人しか弟子は取っていない。名前くらい覚えとる。そもそも、見込みのあるやつ以外、弟子にはしない』
話によると、裕二さんは毎日伯爵の屋敷に泊まり込み、研究に明け暮れていたという。
そのうち、幾つかの発明をして、特許を取得したのだとか。
そして、ちょうど伯爵は製造業を営んでいたので、裕二さんにその発明の商品化を提案したらしい。
本当なら、エストランドの王都に屋敷が建つくらいの特許使用料が入るはずなのだが、裕二さんは、
『わざわざ私に研究の機会を与えていただき、異邦人の自分を手厚くもてなしていただいたのですから、大変感謝しておりますので』
と言ってほとんど受け取らず、学費と生活費の支払いに充てたという。
帰国の際も、伯爵が、
『エストランドに残らないか』
と引き留めたのだが、帰ってしまったのだという。
ただ、伯爵の
『うちの娘も寂しがってたぞ?』
というセリフには、思わず睨んでしまった。
オリバー伯爵は一月ほどこの国に滞在した後、私と裕二さんそれぞれにエストランド土産を渡してから、去っていった。
ちなみにその後のことだが、今までオリバーと契約していると吹聴して回って、横柄な態度を取っていた橘家は、事件後、他の貴族家からの反感を食らい、雑誌社にこれまでの悪行を書き立てられて完全に干された。
オリバー商会の全権委任には、ちゃんとした後任の者が来た。
実は今回の件は、オリバー商会の仕事が遅れ、実務者の手配が間に合わなかったので、急遽代役を裕二さんに頼んだというのが真相だったのだ。
ジョン・スミスと呼ばれていた男は、オリバー商会のライバル企業の回し者だった。
企業イメージを悪化させるために派遣されていたらしい。
伯爵の船で、エストランドまで連れていかれた。
先生は、エストランドに帰った。
港まで見送りに来た俺と、桜さんにエストランド土産を残していった。
桜さんがもらったものは、オルゴールだった。
嬉しそうに音を聞く桜さんに、伯爵は、
『どうだ? この国でも売れそうか?』
と言い。俺が、
『こんなところで商売はやめてください』
という一幕もあった。
そして、俺がいただいたものは………………、
今日、俺は久しぶりに、桜さんと二人で街に出かけている。
買い物や食事をした後、俺は桜さんを小高い丘の上まで誘い出した。
食後のハイキングにはちょっときつかったのか、二人とも息切れしてしまった。
見晴らしのいいところに置かれているベンチに並んで腰かけ、帝都を眺める。
不意に会話が途切れたところで、俺は立ち上がり、ポケットから小箱を取り出した。
中には、先生からいただいた物が入っていた。
俺は、桜さんに語り掛けた。
「先週、これが何か、聞いていましたね?」
「はい」
「エストランドに行ってから知ったのですが、あちらでは男女が婚約するときに、指輪を送る習慣があるそうです」
「……………」
「受け取っていただけますか?」
あとがき
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余談
明治・大正期をモデルとしていますが、日本が舞台というわけでもありません。
一人称を『僕』若しくは『私』にしたかったのですが、『なろう』では、『俺』でないと、感情移入できないのではないか考えてしまいました。
ご意見をお寄せください。参考にさせていただきます。