フィアーダンサー
遠くから見ている僕は、君の目から見れば、きっとただの観客の一人にしか見えない……
けど、僕の瞳には一人のダンサーだけが映っている。
その世界は、官能かつ妖艶…。
しかし、君が誰よりもプラトニックなことを、僕は知っている。
薄暗い空間に、華々しいカクテルライトが何本も交錯し、飛び交っている。
その空間を張り裂きそうな勢いで、聞いたこともないような派手な音楽がはじけている。
僕は、見たこともないような、数々の色をしたカクテルライトが飛び交う側にあるカウンターで、静かに、氷の入ったグラスを揺らしていた。‐‐ジャックダニエルだ。
カウンターから少し離れたステージでは、身体にそのままフィットした、綺麗な白い革の、かなり短い衣装を身に着けた数名の若い女性ダンサーが、音楽に身を預け、そして、酔いしれるように、踊り続け、その側では、アルコールとその女性達に酔ったかのような男達が、食い入るようにダンスを観覧している。
この店に初めて足を運んでから1時間ちょっと経つ。その間、僕は、3杯のグラスを空けていた。
「‐‐こんばんは」
ふと、声をかけられ、僕は、隣を見た。
ダンス服に身を包んだ女性が、まっすぐ正面を向いたまま、静かに、グラスをカウンターの上に置いた。
「……君は?」
僕も、視線をまっすぐ正面に向け直すと、ジャックダニエルを静かに、一口、のどに流した。
「小休憩…」
そう言うと、その女性も、ソッとグラスを口に運んだ。‐‐唇は、バイオレットピンクだ。
「君の踊り、良かったよ」
僕は、静かに言った。
「見てもいないくせに?」
女性が、静かに笑う。
「見なくても、わかるさ」
僕は、タバコに火を点けた。‐‐キャビンプレステージだ。
女性は、軽く、僕に視線を送ると、
「初めて見る、お客さんだわ」
と、言った。
「今夜、初めて来たんだ」
「どこから来たの?」
女性が、首をちょっと斜めにかしげて見せる。
「街の方から来た。すごくいい雰囲気の店がある、と聞いてね」
女性は、クスッと、口元に手を付けると、
「で、どうだった?」
と、訊いた。
「今から、それを見るのさ」
女性は、いたずらっぽく、ちょっと頬をふくらませると、
「もう、ズルイわねっ」
と、言って笑った。
僕は、グラスをもう一度、口元に運んだ。
女性は、ポケットからタバコを取り出すと、口にくわえた。‐‐グリンセーラム、メンソールだ。僕の口元のプレステージに、顔をソッと近付け、艶のある長い黒髪を、静かに、細くしなやかな指で、軽くかきあげながら、自分のタバコに火を点ける。‐‐キャビンとセーラムのキスだ。
女性は、静かに煙を吐き出すと、
「会えて、よかったかも…」
と言った。
「君には、似合わないセリフだ」
僕は、ソッと言った。
女性は、僕に視線を向けると、
「わたし、エリカ」
と、言った。‐‐心を開いたような笑顔になる。
「僕は…野川和洋」
「そう……。いい名前ね」
エリカは、穏やかな目をした。
‐‐人から誤解されそうな強い目をしているエリカだが、その瞳の奥には、まだ、少女のあどけなさと、寂しさを含んでいるのを僕は見て取っていた。
店に入って、2時間近く経つ‐‐。
カウンターから少し離れたステージでは、相変わらず、若い女性ダンサーが音楽に身を預け、酔いしれるように、踊っている。
エリカは、ステージの端で身をかがめ、観覧席の常連らしい数名の男客達と、無表情のまま、何やら話しをしている。
僕は、カウンターの向こうのマスターに合図をした。
マスターが、コクリと頷き、レジの前に行く。
僕は、カウンターの上に、数枚のコインを置いた。
窓の外へ目をやると、真っ暗な夜闇に、雨が軽く落ちてきている。
床に足を着き、立とうとした時、店内が少しずつ薄暗くなり、華やかなカクテル光線は、雰囲気のある色に変わり始め、音楽は静かなバラードに変わり始めていた。
僕は、カウンターから離れると、ポケットの中の車のキーを軽く握り、入り口へ向かった。
「‐‐やめてよ。助けて!」
声の方に目をやると、酒に酔った男達に腕を掴まれたエリカが必死に振りほどこうとしている。
僕は、視線をドアへ向けなおすと、ドアを開けようとした。
「助けて!」
エリカが逃げるように走ってくると、僕の胸に飛び込んだ。
僕は、男達の方へ目をやる。
数名の男達が、僕を睨みつけ、立ち上がる者もいた。
「‐‐ねえ、逃げるのよ」
体を震わせ、怯えた目をしたエリカが、懇願するように僕の腕を掴むと、片方の手でドアを開けた。
僕は、もう一度、男達の方へ目をやる。
数名の男達が、睨みながら、僕らの方へゆっくりと歩み寄ってくる。
僕とエリカは、店の外へと飛び出した!
‐‐窓の外を、凄い速さで夜の海がどんどん通り過ぎていく。
バックミラーの中では、一瞬の内に、港海岸の街灯が次から次へと遠ざかっていく。
いつまでも続く、港の海岸沿いを、黒のマジェスタがすごいスピードで走り、その空間だけが、まるで、ハイウェイの様だ。
助手席の窓の内には、ほのかに赤く小さな点が光っている。
窓が、静かにゆっくり下がり、長く綺麗な黒髪のエリカが顔を出した。
グリーンセーラムを、細くしなやかな指で軽く持つと、バイオレットピンクの小さな唇から、ゆっくりとメンソールの煙を少しずつ吐き出す。
海からの潮風が、エリカの額を、優しく撫でて髪をかき上げていく。‐‐エリカが気持ち良さそうな顔をする。
僕は、正面から目を離すことなく、ハンドルを握っている。
スーツのポケットに手を入れ、キャビンを取り出す。‐‐1本くわえる。
ライターを探していると、カチッという音と共に、キャビンの先が赤くともった。
見ると、エリカがライターを手に、いたずらっぽい表情で、僕を見ている。
僕は、正面に視線を戻すと、
「ありがとう」
と言った。
「お礼なんて言わないで。これくらい、させて」
エリカが、いたずらっぽい瞳で僕を見つめ、大人びた口調で言った。
僕は、キャビンを一口吸い、ゆっくりと煙を窓の外へ流すと、
「君に、貸しなんてあったっけ?」
と訊いた。
エリカは、僕をジッと見つめ、
「私を、助けてくれたわ」
と静かに言った。
僕は、一瞬とまどったが、一つ、咳払いをすると、
「あれは、助けたんじゃない。……君を奪ってきたんだ」
と、ソッと顔を窓の方に向けた。
一瞬、エリカは黙っていたが、やがて、もう一度、僕に目を向けると、
「……そう。じゃあ、責任を取ってもらわなくちゃね」
と、ちょっとおどけたように、可愛らしく微笑した。
「‐‐‐」
僕は、ちょっと、どぎまぎしながらマジェスタを走らせる。
信号が、赤になった。
‐‐ブレーキを踏む。
マジェスタは、静かに、街灯が数本だけで、辺り一面真っ暗な港海岸通りの真ん中で止まった。
防波堤が、長く伸び、その周りのテトラポッドには波が繰り返しぶつかり、その度に、新しく小さな雫をいくつも生み出していく。
エリカの白く細い腕が、切なく、僕の背中に伸び、僕のグレイフランネルスーツの腕が、強く、エリカの背中に伸びる。
カーラジオからは一昔前のアメリカンオールディズが静かに流れている。
僕は、エリカの艶のある綺麗な黒髪を優しく撫で、エリカは、僕のテックツーワンで固めた髪にソッと触れた。
エリカのバイオレットピンクと僕の唇が初めて、触れ合った……。
真夜中の潮風と波の音が、静かに、二人を祝福した。
‐‐そして、エリカはダンサーをやめた。