07、次男ジロウと三男カズミ
下町にある「西域ラーメン」という名の平凡などこにでもあるようなラーメン店の家族の物語。長男シンイチは、大学4年の時、海外旅行中に行方不明となってしまう。親友アキヤマには、2ケ月後、メールが届いていた。母ミキ子と幼馴染ユキコは、外務省に「所在調査依頼」を提出した。
次男ジロウは、兄シンイチのことなど、どうでもいいと思っていた。母ミキ子から電話があり、「シンイチが帰って来ない。所在調査を外務省に出した。このことは、カズミには言わないでおくれ。」とのことだった。どっちにしても、ジロウは、兄の安否や行方に関われる状況にはなく、日々の仕事に追われているだけだった。
自動車の陸送の仕事は、朝が早い。5時には出勤している必要がある。遠方に仕事がある場合は、3時や4時になることもある。早朝、事務所で伝票を受け取り、行き先・搬送車を確認する。トレーラーのエンジンを暖め、タイヤ、キャリアに異常がないか目視する。積算走行距離、ガソリン量をチェックして出発。走行時のスピードはタコメーターで、走行時間や休憩時間は携帯端末で、全て管理されているから、気が楽ではない。
昔見た「トラック野郎一番星」の映画なんかとは、現実にはトラック運転手の実情は全く違う。そんな気ままで、流暢な仕事ではない。制服、行動、社内の人間関係、運転にまつわることは、全て会社の管理下にある。平均走行スピードや燃費まで、成績表のように印刷され、後日評価されてしまう。
それでもジロウは、この仕事が魅力的だと思っている。大型キャリアカーに自動車を積み運ぶ。しかもトレーラーだ。幼い頃、兄とおもちゃの取り合いをして遊んだではないか。キャリアカーとミニカー。そして、一日中、ミニカーを乗せてはキャリカーを走り回し、運転手の気になって、居間でも店の中でも騒いでいたではないか。
それとジロウは大の車好きであった。運転も好きだし、メカニックにも興味があった。運転に関しては、この仕事なら、どんな車でも極短い距離ではあったが、エンジンをかけハンドルを握り、サイドブレーキを解除しアクセルをふかすことができることが快感だった。ポンコツから最新の車まで、国産アンティックカーから海外の名車まで。BMWはもちろん、ロータスもフェラーリも運転できるのだった。...ちょっと悔しいことに運転はあくまで、構内に限られてしまっていたが。
細かな事ではあるが、キーの使用の仕方、エンジンのかけ方、シートに座った感触、ハンドルの感覚、パワーレスポンスは、車種によって、全く違ってくるのだ。だが、今では車を見た瞬間に、それら感覚が伝わってきて、どういう運転をすればいいかイメージできる。
なにより肝心なのは車載の技術だ。車幅の1㎝も狂いがないように、キャリアの真ん中に積む。外国車など車幅が広い車は、かなりの慎重度を要する。擦って些細な傷でも残れば、会社の損害となる。そして、下回りにあるフックにワイヤーを引っ掛け、レンチできつく固定する。搬送中にワイヤーが緩むようなことがあれば、即座に大事故につながってしまう。おまけにフックの位置が、車種によって全然違うので、探すのに時間を費やしてしまうこともある。
職人のような仕事だ、とジロウは思っていた。トラックの運転だけではない。搬送車の運転、積み込み、キャリアのリモコン操作、安全管理と伝票の管理。それらを全て一人で行っているのだ。見習い期間が終われば、誰もサポートしてくれる人などいない。自分で判断し、ひとつひとつ覚えて行かなければならない。もちろん、行き先のヤードと呼ばれる中古車が山と積まれているような場所、だだ広いオークション会場の通行の仕方、当然、高速道を安全に迷いなく走れる要領を得ている必要もある。
そんなジロウには、兄弟の事情など構っている暇も余裕もなかった。少なくとも仕事中は...。仕事以外の時間では、悪友たちと雀荘や居酒屋で過ごすこともあったのだが...。
三男カズミが帰宅した。カズミも例に漏れず、西域ラーメンの店ののれんをくぐって帰ってくる。幼少の頃からの習慣だ。家に帰るやいなや、父が作った醤油ラーメンを食べるのが日課の一つなのであった。
カズミは来年大学受験となるが、勉強以外のことにかけては、能天気な性格である。三男坊にあるように責任感に欠けているというのか、発想も行動も自由なタイプだ。ただ、兄シンイチのことだけは、小学校時代の記憶もあって慕っていることだけは確かだ。親しみをこめて、シンイチのことを「シンちゃん」と呼んでいる。
「シンちゃん、外国で医療ボランティア始めたんだって。母さんが言ってた。すごいね。注射したり、薬飲ませたりもしているのかな。それとも手術の手伝いかな。パキスタンにいるんでしょ。インドの隣、中国の向こう側。確か、人口も多くて、核爆弾も持っているんだよね。戦争になったら、戦地にも派遣されたりするのかな。」
カズミがいつものように父ハナオにカウンター越しにまくし立てる。ハナオは、カズミの勉強を詰め込まれた欝憤晴らしのようなおしゃべりを、包容力のある穏やかな笑顔で聞いている。
母キミ子が、厨房に入ってきた。
「注射は、免許持ってないと出来ないし、戦争になってもボランティアなら戦地になんていくわけないよ。お前はまだ、未熟だね。」
カズミは、シンイチがしばらく帰ってきていないことを気にはかけていたが、ミキ子がそう言っているように、すっかり医療ボランティアに従事していると思い込んでいる。
「シンちゃん、偉いよね。シルクロード研究も兼ねたボランティアか。いいな。俺も大学合格したら行きたいな、外国。この写真の中のラクダに乗って旅をするんだ。」
「今どき、ラクダで旅をする人間なんていないよ。」とミキ子。
「ラクダに乗っていれば、ラクだ!おまけに、ラクありゃ苦ありだろうけど、ラクダ5頭でラクゴだ。ハッハッハ。」
「くだらない冗談言ってるんじゃないよ。さっさと2階で勉強してきな。」
「じゃあ、これから外国に行ってきます。今日の勉強は、世界史と地理です。そして英語にも重点を置きます。」と敬礼してみせた。
このカズミの明るさが、経営が傾き始めている「西域ラーメン店」に、ひとときの灯を与えている。それは、遠く冷たい湖に浮かんでいる、洒落て可愛いスワンボートのようにアクセントを奏でていた。